東京都に住む受験生の方から、次のような質問を受け取りました。
公武合体論であった薩摩藩は、なぜ倒幕派になったのですか?
島津斉彬は、13代将軍家定の継嗣争いの時、一橋慶喜を推しています。そして、島津久光は公武合体論で朝廷からの勅使を得て、文久の改革を行いました。島津久光のおかげで安政の大獄で失脚していた一橋派は政治に復活できたのだと理解しています。また、八月十八日の政変や禁門の変では、親藩である会津藩と一緒に尊攘派の長州藩を京都から追放したのですから、幕府と協力していたように思います。
それなのになぜ、倒幕派になって、徳川慶喜を倒そうと考えるようになったのですか。
薩英戦争の後、イギリスに接近して軍艦を購入するなどして、軍事力が強くなったり、欧米諸国の進んだ文明を知ったから、もともと倒幕派であった長州と組んで幕府を倒そうとしたのという人もいるのですが、八月十八日の政変や禁門の変は、イギリスと関係を持つようになった後です。
坂本龍馬の仲介で薩長連合を結んだのは、すでに薩摩藩も倒幕派になっていたからだと思います。
いつ薩摩藩は倒幕派になったのですか?
なるほど。良い質問ですね。少なくとも、「薩英戦争でイギリスの実力を知り、留学生を派遣するなどイギリスと関係を持ち、欧米諸国の実情を知ったから、倒幕派になった」という意見は、出来事の流れから考えておかしいと思える力があることが素晴らしいです。
薩摩転換までの流れをチャートにすると、以下のようになります。
〇ペリーが来航する。
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〇阿部正弘のもとで島津斉彬が幕政参加できるようになる(大名の幕政参加への意欲を高めた)
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〇13代家定の継嗣問題で、薩摩藩などは、さらに発言力を拡大するため一橋慶喜を支持する(公議による雄藩連合をめざす)
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〇桜田門の変で、幕府権威が大きく低下する
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〇14代家茂と和宮との政略結婚(公武合体策)により、朝廷の発言力が強化する
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〇諸藩のなかには、朝廷の意向を利用した幕政介入を図るものがいた
その代表が孝明天皇が支持する公武合体論を掲げて文久の改革を行った島津久光や、尊攘派公家と結んだ長州藩
文久の改革で、もと一橋派が幕政に復活。雄藩連合の路線も復活
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〇徳川家茂が朝廷の尊攘派から攘夷の実行を約束させられる
=幕府が朝廷から政策の実行を委任されるという関係になる
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〇幕府が攘夷の実行を約束させられた中で、欧米諸国との局地的な軍事衝突が起こる
=長州:下関での外国船砲撃、薩摩藩:薩英戦争
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〇攘夷派(長州)が幕府否定へ急進化。孝明天皇は公武合体論者で倒幕には反対だったが、幕府に攘夷を委任し続けた
(ここに矛盾があった)
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〇八月十八日の政変で、幕府側勢力が朝廷での主導権を奪取した(政治の中心は江戸から京都へ移った)
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〇禁門の変→第一次長州征討→四国艦隊下関砲撃事件→長州恭順
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〇孝明天皇の信任を得た徳川慶喜が、朝廷での主導権を掌握した
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〇これに対して薩摩藩は、朝廷のもとで諸藩の代表者が国政を協議する体制(公議の尊重、雄藩連合路線)を主張して、慶喜に対抗した
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〇争点となったのが、長州藩の処遇であった
・慶喜は、再び幕府に対抗する動きを見せた長州を再度攻めようとした
・薩摩は反発し、諸藩の合議で対応することを主張した
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〇第二次長州征討が決定される(長州再征の勅許)
長州再征を阻止すべく動いていた大久保利通は、西郷隆盛に宛てて「天下万民が納得する正義のない勅命は、真の勅命ではない」と書き送る
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〇薩摩、幕府を見限る→倒幕派に転換して薩長連合を結ぶ。
以上をまとめると、次のようになります。
薩摩藩は、阿部正弘の時代から幕政に参加できるようになり、雄藩連合を目指します。さらに朝廷の意向を利用した幕政介入を図り、文久の改革を行いました(公武合体論者であった孝明天皇の意向を利用)。
その後、薩英戦争を機にイギリスに接近し、軍事力を強化します。そして、八月十八日の政変、禁門の変では幕府と組みました。
しかし、禁門の変で孝明天皇の信任を得た徳川慶喜は、幕府中心の政治を行おうとし、諸藩の代表者が国政を協議する体制(公議の尊重、雄藩連合路線)を望む薩摩と対立するようになります。この対立を決定づけたのが、第一次長州征討後の長州の処遇です。長州再征の勅許が出されたことで薩摩は幕府を見限り、倒幕に転換して薩長連合を結びました。
受験生の理解を助けるうえで、少しでも役に立てば幸いです。
2021.10.24