名訳? 迷訳?『鎖国論』
 
 指導要領に「鎖国」復活…どう考えればよい?

 これは、2017年5月に某大手受験産業のHPに掲載された記事のタイトルである。

 2017年2月、文部科学省は2020年代初に実施される小中学校の「新学習指導要領」の歴史の教科書において、「鎖国」という表記はやめて「幕府の対外政策」に替えるという案を告示した。しかし、「パブリックコメント」の結果、多くの反対意見が寄せられたことを受けて、3月末告示では「鎖国」は復活し、教科書には「鎖国などの幕府の対外政策」と記されるようになった。

 ただ、この時は「聖徳太子」をやめて「厩戸王」にするという案(小学校=「聖徳太子(厩戸王)」、中学校=「厩戸王(聖徳太子)」)も出されていた。
 この「聖徳太子→厩戸王」案のインパクトは大きく、国会でも当時の民進党の議員が、「
聖徳太子を厩戸王にするなど、歴史に対する冒涜だ」と述べるなど、ニュースでもかなり報道された。そのため、「鎖国論争(?)」は、霞んでしまったようにも思える。
 
 閑話休題

 鎖国の話に戻ります。現在、中学校の教科書の「鎖国下の対外関係」の単元には、次のように記されている。

 
江戸幕府の外交政策は「鎖国」と呼ばれていますが、国を完全に閉じていたわけではありませんでした。日本人が海外に出ることは厳しく禁止されましたが、長崎・対馬藩(長崎県)・薩摩藩(鹿児島県)・松前藩(北海道)の4か所を窓口として、日本は異国や異民族とゆるやかにつながり、自国を中心とする国際関係を作り出しました。 (『新しい社会 歴史』(東京書籍))

 素晴らしい! 本質を端的に書いている!!
 そもそも、当時は東アジアの国はどこも海禁政策をとっていた。そのため「鎖国政策」という、独自の用語を使うのをやめて、一般的な「海禁政策」にすべきだということは、ぼくの学生時代でも言われており、そう思ってきた(1冊目の本の第7章にも書かせてもらいました)。

 いわゆる「鎖国史観」(江戸時代=国を閉ざしていた)の克服に多大な貢献をした
ロナルド・トビ 氏(イリノイ大学の名誉教授)は、次のように述べている。

 
近世の日本は『鎖国』的状況どころか、江戸時代を通して、東アジア諸国と密接につながり、日本の外交政策は東アジアの域内経済や日本の国内政治経済にとって、きわめて重要な役割を果たし続けた。

 教科書には、「鎖国」という言葉は、ドイツ人医師ケンペルが著した『日本誌』の内容を、志筑忠雄が「鎖国」と和訳したことによると書かれている。そして、ペリー来校以降、「開国」に対軸となるものとして「国を閉じる鎖国」が用いられるようになり、定着した。

 しかし、正確に言うと『日本誌』はケンペルが書いたものではない。実際にケンペルの著書といえるのは、1712 年にラテン語で書かれた『廻国奇観』のみである。この『廻国奇観』も日本での通称であり、原題は『
政治学的・自然学的・医学的主題に関する異国の魅力ある事柄五巻:著者エンゲルベルト・ケンペル博士が東方世界の旅行において注意深く収集したペルシアとアジア極地に関する様々な報告、観察、描写を含む』という。今のライトノベルのタイトルも、適わない長さである。

 では、『日本誌』とは誰が書いたのか。ケンペルは、『廻国奇観』とほぼ同時に、「Heutiges Japan(「今日の日本」)」という本をドイツ語で執筆していた。しかし、書き上げる前の1716年に死去した。ケンペルの遺産の多くは甥が相続し、金銭難に陥った甥は、遺産のうち日本に関するコレクションをイギリスのハンス・スローン卿に売却した。「今日の日本」の手稿を得たスローン卿は、これを英語に訳して 1727 年に『The History of Japan(日本誌)』のタイトルで刊行した。その際、『廻国奇観』所収の日本に関する論文6編もラテン語から英訳して、『日本誌』の末尾に付録として加えた。この『日本誌』は大反響となり、たちまちフランス語訳とオランダ語訳が作られた。このオランダ語本を、志筑忠雄は和訳したと思われる。

 では、『鎖国論』と訳された『廻国奇観』の第2巻第14 章をなす論文の原題は何だったのか。

 Regnum Japoniae optima ratione, ab egressu civium, & exterarum gentium ingressu & communione, clausum

 
最良の見識によって自国民の出国および外国人の入国、交易を禁じ、国を閉ざしている日本王国

 これを一言で、『鎖国論』と表現した志筑忠雄は、天才だと思いませんか!
 

2024.4.16

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