発展 『長崎会所の成立と2016年度東大第3問

 鎖国政策を行った理由について、現在の教科書には、

〇「その理由の第1は、キリスト教の禁教政策にある。理由の第2は、貿易に関係している西国の大名が富強になることを恐れて、貿易を統制下におこうとした」
(山川『詳説日本史B』)

〇「
幕府は禁教令を徹底するために、貿易や海外との往来を制限するようになった。貿易制限は、西国大名が独自に貿易をおこなうことによって力をつけることを防ぐとともに、幕府が貿易の利益を独占するためにも必要なことであった。」(実教『日本史B』)

のように記されている。

 しかし、この「幕府が、西国大名が貿易の利益によって富強になることを防ぐために鎖国政策を進めた」という考えには異論もある。それは、

 
幕府が長崎貿易の経営にかかわるようになったのは1698(元禄11)年の長崎会所設置以後で、1610〜30年代当時は、そうした組織や機構は存在しなかった。したがって、「貿易利益の独占」云々は、必ずしも正しくない。(鶴田 啓 氏)

というものである。

 
長崎会所とは、江戸時代、長崎貿易を独占的に自治、統制した商人の機関である。長崎における貿易管理として受験生が最初に習うのは、1604年の糸割符制度であるが、糸割符仲間が独占したのは、あくまで生糸であって、他の商品に関しては原則として相対貿易(当事者間相互の合意に基づく商取引)が実施されていたと考えられている。その糸割符制度も1655年に廃止され、長崎貿易は相対貿易が基本となった。
 しかし、その20年度の
1675(延宝3)年に市法会所が設置され、1685(貞享2)年、割符会所となり、1698(元禄 11)年に長崎会所と改称した。長崎会所は、長崎奉行の監督下に置かれた貿易を取り扱う商人の機関であるが、中心となる者は苗字帯刀を許され、長崎の町政にも関与し、権勢を誇った(そのため1700年には「深堀事件」と呼ばれる鍋島藩の武士との刃傷沙汰(討ち入り事件)も起こっている)

 ここから考えるに、幕府が長崎貿易の統制に乗り出したのは、早くても1670年代以降となる。その
背景は、明末・清初の動乱(明清交替の動乱)がおさまった後、日中貿易が年々拡大していったことであった。輸入の増加による銀の流出を抑えるため、5代綱吉は、1685年に輸入制限を行い、さらに1688年には唐人屋敷を設けたのである。
 この、長崎におけるオランダ・中国からの輸入制限は、新井白石の海舶互市新例(長崎新令)につながっていく。

 つまり、
鎖国政策の推進によって、西国大名の経済力を削減し、幕府が貿易を独占することになったのは、あくまで結果論であって、当初から目的とされていたのではなかったことになる。

  
 ここまで見て、思う浮かんだのが、2016年度の東京大学の第3問の設問Bある。


 江戸時代に大船建造が禁止された理由は、「当初は外洋航海禁止が目的ではなかったが、鎖国の形成時期に武家諸法度に加えられたことから、幕末の役人が、大名が外国へ渡航し、貿易することで富強となることを防ぐための施策だと理解(解釈)した。

 というものであった。ざっくり言うと、

 当初の目的ではなかったのだけど、結果もたらされたものを後世の者がみて、最初からそうだったと思い込んだ

 と受験生に答えさせたのである。

 思ったのだけど、東大って、こういう問題を出すの好きですよね。


2017.1.10


窓・発展目次へ戻る
トップページへ戻る