『室町時代編3 室町時代の争乱』

【1】 先土器時代 (P.1)(P.49〜52)

1 室町時代の争乱 (P.49〜50)

 応仁の乱を別格として、あとは「誰の時、誰の、何という乱が起こったか」のセットネタである。

(1)3代足利義満の時の明徳の乱1391)と応永の乱1399)は、ひっかかる時がある。
 「六分の一殿」(一族で六分の一衆)と呼ばれた山名氏清(明徳の乱)は「11カ国の守護」を兼任(日本は66カ国)。堺で滅亡した大内義弘(応永の乱)は「6カ国 の守護」である。という字に飛びつかないこと。
 
(2)4代義持の時の上杉禅秀の乱はかつては義満の時の土岐康行の乱と合わせて、おまけ的存在だったが、最近は並び替えなどでも出題されている。

(3)「万人恐怖」「薄氷を踏む思い」と言われた6代足利義教の時、しばしば将軍と衝突していた鎌倉公方との対立が爆発。これが永享の乱1438)である。この時鎌倉公方足利持氏と対立した関東管領上杉憲実は、足利学校再興でもメジャー。
 そして、この足利義教自身が暗殺されるのが、嘉吉の変(乱)1441)であり、これが嘉吉の徳政一揆の呼び水となる。暗殺したのが播磨守護赤松満祐であることは必須だが、この人、播磨の土一揆を鎮圧した人でもある。(しかし、将軍暗殺なんていう重大なことが、庶民にも知れ渡ったわけだから、この時代の幕府の危機管理能力はゼロやな)(エピソード「籤引って本当かも?−足利義教−」へ

(4) 「人の世虚しい1467)」応仁の乱(応仁・文明の乱)について。
 原因は有力守護の家督争いであった。この「家督」という語も問われている。
 そもそもは畠山氏の家督争い(畠山政長と畠山義就)に、細川勝元、山名持豊(宗全)という、幕府の実権を争っていた二人の実力者が介入したことであった。
 基本事項としては、将軍家の足利義視(義政の弟)・足利義尚(義政と日野富子の子)→のち9代将軍。細川勝元山名持豊(宗全)の名は絶対。(ちなみに「明徳の乱」で失脚していた山名氏は、赤松満祐を討って復権した。)組合せは、途中で組合せが変わったり、寝返りがあったりして、訳が分からなくなっているので余り重視したくない。変わらないのは川が軍、山名が西軍である。(ぼくは「そかわ=がしで、行」で覚えた。
 戦乱は約10年続き、京都は焼け野原になった。このことを詠んだ「汝ヤ知ル 都ハ野辺ノ夕雲雀・・・」(『応仁記』)の歌は、応仁の乱を表すものとして結構出る。また一条兼良の『樵談治要』に「超過したる悪党」と記されている足軽が、応仁の乱の産物であることは頻出する。この足軽は『真如堂縁起』の絵でも分からなくてはならない。
 これにより、「幕府権威が失墜」し、「下剋上の風潮が強まり」、「戦国時代が開幕した」ことを正誤問題で問われたら、全てである。
 ただ、近年、この応仁の乱の後も幕府は権威を保っており、戦国時代の開幕は、1493年に管領細川政元(細川勝元の嫡男)が、日野富子と共に将軍(10代義材:よしき)を廃して、11代将軍として足利義澄を擁立した明応の政変からという説が出されている。この明応の政変以後、将軍家は二分された。
 ちょっと盲点的な出題では、この時、西軍が陣を敷いた場所が、高級絹織物の西陣となる。(発展 「応仁の乱の意義」へ

2023.6.18 (4)応仁の乱の項に明応の政変を加筆

通史編目次へ戻る
目次(トップページ)へ戻る
室町時代編2『室町幕府の政治』へ
室町時代編4『庶民の台頭』へ