『室町時代編4 庶民の台頭』

2 庶民の台頭 (P.50〜51)

 とは何か、と一揆の二本立てである。

(1)惣の形成
 (惣村)のキーワードは地縁的結合。鎌倉時代末から、経済的先進地帯である近畿周辺で発生した。この惣がいくつも集まった形を郷村制という。
 教科書には「中小名主が加地子という地代をとって地主化」とあるが、この加地子という言葉が分かりにくい。実際によく分かっていないのだが、入試の出題パターンはこの文章の丸写ししかない。
 惣の指導者である番頭おとな沙汰人などは、正誤問題の花形ミツル君。ダミーは名主組頭など江戸時代の村方三役(名主は「みょうしゅ」ともとれるが)である。
 寄合惣掟自検断(地下検断)の流れはお約束。寄合のもととなった宮座祭祀集団がキーワード。惣掟は史料も確認。
 惣による年貢納入請負いである地下請(百姓請)は、地頭請、守護請などとの区別をしっかり。武士の荘園侵略の言葉ではないよ。
 混乱しやすいのは地侍国人の違い。地侍は惣の指導者層の有力農民で、守護と主従関係を結んで侍身分を獲得した者。つまり、もともと農民。国人は「室町時代編1 建武新政と南北朝の動乱」中の「国人一揆」の説明で記した通り、地頭など在地のプチ領主であり、支配者身分である。

(2)室町時代の一揆
 教科書では、応仁の乱をはさんで二つに分けてあるが、一気(一揆)にまとめてある。要は史料を見ても、年代順に並び替えることが出来れば良い。(史料編ではさらに詳しく記してあるので確認してほしい。)
 「愁訴→強訴→逃散→一揆」という流れも知っておきたい。「愁訴=領主への嘆願」「強訴=大挙してのおしかけ」「逃散=集団逃亡」そして、組織的抵抗が一揆である。

(1)「土民蜂起是れ初めなり」→正長の徳政一揆(土一揆)(1428)=近江坂本の馬借→徳政令要求→酒屋・土倉・寺院を襲撃→私徳政(徳政令は出ていない)
(2)「侍をして国中に在らしむべからず」→播磨の土一揆(1429)=正長の徳政一揆の翌年。徳政一揆ではない(徳政令を要求していない→正長と嘉吉は徳政一揆と答えても、土一揆と答えても可)
(3)「代始めに此の沙汰先例」→嘉吉の徳政一揆(土一揆)(1441)=嘉吉の変(乱)に乗じて。幕府、初めて徳政令を発布
(4)「山城国人集会す・・・下極上のいたりなり」→山城の国一揆(1485)=国人たちが平等院に集会。あわせて土民たちも集まっている。守護畠山氏を南山城から追放。年間の自治
(5)「越前合力勢賀州に赴く・・・富樫城を取り巻く」→加賀の一向一揆(1488)=富樫政親自刃。富樫泰高が名目上の守護。1世紀の自治。本願寺の領国のよう。

<発展的な内容:国一揆の解釈について>
 「山城の国一揆は『山城の国人一揆』の略であり、山城国の一揆ではない。」と説明してきた。
 しかし、新課程の教科書では「国一揆は、武士だけでなく、地域住民も広く組織に組み込んでいいた点で、国人一揆と区別される。」(山川)、「南山城の国人や土民が集会をひらき、この地を戦場にしてたたかっていた守護の両畠山氏に国外退去を求め、8年間にわたって国一揆の自治的な組織をつくってこの地を支配した(山城の国一揆)。」(実教)とある。

 これはどういうことなのか。

 結論から言うと、従来の解釈を変更すべきとなる。つまり、

 南北朝期の国人一揆は、「百姓を支配する側にたっている在地領主=国人による一揆」

 室町後期(応仁の乱後)の国一揆は、「国人層が百姓(地域住民)などを広く組み込んでいる惣国一揆」
 
この場合、百姓や、場合によっては僧侶などの地域住民は、国人に巻き込まれたというより、共通の利害をもとに広く階層を超えて共闘している。

 以前より、「国内のプチ領主(有力武士)である国人たちの一揆を意味する国人一揆」と、「武士に限らず百姓たちも含む惣国一揆」とが混同されているという批判はあった。新課程の教科書は、その点を明確に区別したと言える。
 今後は、「南北朝期に領国の支配権を強めていく守護に対して、自分たちの領主権を守るために国人たちが団結した(=一揆を結んだ)。これが国人一揆」。それに対して、「応仁の乱後は、国人たちを中心として、利害関係が一致した地域住民も一緒になって団結した国一揆が起こり、自治を行った」と理解しておくべきである。

 なお、山城の国一揆が8年で崩壊した原因の一つは、あくまでも領主として百姓たちを支配したい国人たちと、自治を行いたい百姓たちの利害の対立であった。

 正長の徳政一揆は、柳生街道にある地蔵に彫られた「正長元年よりさきは神戸四か郷に負目あるべからず」の史料もよく出題される。また寺院も襲撃された理由を問い、「祠堂銭を使って高利貸しを営んでいたから」と答えさせる問題も出る。
 加賀の一向一揆で富樫泰高が、名目上の守護とされたのは、農民には領主権がないため。下剋上の時代ではあっても何でもありではなく、大義名分は必要であった。なお、加賀の一向一揆は100年間(1世紀)続いたが、石山本願寺の降伏後、解体された。

(2003.2.25改訂)
(2005.9.18追記)

(2014.11.16 発展的な内容:国一揆の解釈について を加筆し、内容を修正)

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