発展 『応仁の乱の意義』

だいたい今日の日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の歴史を知っておったらそれでたくさんです。

   これは東洋史学者として著名な内藤湖南(虎次郎)が、1921(大正10)年に行った講演の一節である。彼の中国史の「時代区分論」は現在でも使われている。(門外漢なので間違っていたらすみません)
  東洋史学者と言ったが、日本史の世界でも極めて有名な人物であり、『日本文化史研究』など多くの著作がある。(文庫本になってるから将来日本史を学ぼうと志す人は読んでね。もちろん、彼は山川出版社の『日本史B用語集』にも載ってる人です。)

 anyway,この部分だけを取り出してみると、あまりに極端なように思えて驚くかもしれない。しかし、『日本文化史研究』では、史料集にも載っている「山名宗全と大臣のやりとり」(歴史的な重みを背景とした大臣が古い例を次々に引き合いに出したのに対し、山名宗全が「例といふ文字をば向後(こうご)時といふ文字にかへて御心得あるべし」と言った話。つまり、今は「先例」が無視されていると言った大臣に、山名宗全が「時」、「時勢」というものを考えたほうがいいと言った話である。)を用いて説明している。

 応仁の乱から織田信長・豊臣秀吉にいたる120年ぐらいの間に、古代からの流れはすべて絶たれて、新しい動きが出てきた。この流れが、今日の日本文化というものを支えている。事実、能、狂言、生け花、茶の湯のどれもがこの時期に発生したものであり、下剋上の中、古代以来の家系は崩壊し、新しい「時」を担った人たちがつくり上げてきたものが、今日の日本に影響を及ぼしている。

というのである。

 先述の通り、内藤湖南のこの説は、日本史の世界では有名なため、入試問題でも利用される。一つは室町文化に関する設問の導入として。もう一つは論述問題である。次は、その一例である。冒頭の部分を含む講演内容を紹介した後で、以下のように続けている。

「この発言の前で、湖南はほぼ以下のところを述べて、その主旨を説明している。

(1) 歴史とは、ある一面からいえば、いつまでも下級人民の向上発展してゆく過程であるといってよい。日本の歴史もまたそうであるが、中でも応仁の乱は、そのもっとも大きな記録である。

(2) 元来、日本の社会は、地方に多数の有力な家があって、そのおのおのを中心につくられた集団から成り立っていた。ところが今日、多数の華族のうちで、公卿華族を除いた大名出身の家の大部分は、みな応仁の乱以後に出て来た家である。応仁の乱以前にあった家の多数は、応仁以後の長い争乱のため、ことごとく滅亡している。応仁の乱以後百年ばかりの間は、日本全体の身代の入れかわりである。こういうことから考えると、応仁の乱は日本をまったく新しくしてしまったのだ。

 以上に要約した論旨を参考にしつつ、各人の自由な視点から、湖南の見解を、400字(句読点も1字に数える)以内で論評し、答案用紙に記入せよ。」

   内藤湖南の説に賛成か、反対か。もちろん答はない。自分の意見を根拠をあげてきちんと説明出来ればよい。(余談だが、特に北九州市立大学の小論文の問題は、賛否両論で書ける設問の典型である。ぼくは良い問題だと思うけど)

 ただ、室町時代の相次ぐ戦乱の総決算としてのみ、応仁の乱の位置づけがあるのではないことは確かである。

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