エピソード 『籤引きって本当かも?ー足利義教ー』

 室町幕府の初代将軍は足利尊氏である。2代は義詮(よしあきら)、3代は義満、4代は義持、6代は義教・・・。あれ?5代はどこへ行ったんだ。

 第5代の将軍は義量(よしかず)という。彼は生来病弱なくせに大変な酒好きあった。15歳で父義持から将軍職を譲られるも、こればかりは直らず、ついに義持は幕閣(幕府の要職にある者)を集めて、起請文を書かせるに至る。内容は、

「義持の許可なく、義量に酒を飲まさないことを誓う」

というものであった。なんなんだ・・・とも思うが、分かっちゃあいるが、なかなか休肝日(酒を飲まない日)をつくれないぼくとしては、義量の気持ちは痛いほど分かる。

 しかし、義量は飲み過ぎからか、享年19歳(満17歳)で病死した。(笑いごとではない・・・)その後は将軍空位のまま、義持が政治を見ることになった。その義持も満41歳の若さで世を去ることになる。
 死の床に就いた義持には継嗣がなく、後継将軍は彼の弟4人のうちの一人ということになった。しかしこの4人、全員が若いうちから僧籍に入っていた。義持は、後継を指名しない。困りはてた幕閣は、籤(クジ)を提案し、義持もそれを受け入れた。

 でもこれは表向きの話。実際には4人の候補のそれぞれに畠山、細川、山名といった幕閣がついていて勢力が均衡していた。そのため紛争を避ける手段として「神託」という形がとられた「出来レース」であって、最初から義持の意向通り義教が当選することは決まっていた。
 
 と言われていたし、ぼくもそう思っていた。(授業でもそう言ってきた。)
 ところが最近、興味深い説があることを知った。適任者がいなくて、将軍も幕閣も困りはてて、本当にクジにしたという説である。(今谷明『籤引き将軍足利義教』)
 最初は「そんな馬鹿な」と思ったが、考えてみれば、そのほうが筋が通ることが多々ある。

 10歳で僧籍に入っていた義円(後の義教)は、将軍になった時35歳。将軍職就任を何度も断ったという。しかし幕閣たちは、
神慮の上は左右に及ばず」(左右(そう)は是否の意味。「神の思し召しに、良い悪いと言うな。」)
と説得した。当時はまだ卜占(ぼくせん)が信じられていた時代であった。

 自分が将軍になったのが神の意志ならば、土地を巡る紛争や犯罪について将軍としての判断を求められた時もまた、神の判定に頼ろうとした。
 そう考えれば、彼が
古代の盟神探湯を復活させたことも説明がつく。争う両者に、煮えたぎる釜の中に手を入れて石を取り出させる。火傷の激しい方が敗訴。
 今までこれは、「梅の枝が折れた」と庭師を殺し、「料理がまずい」と料理人を殺した(似たようなことを信長もしようとしたが)のと同様に、「万人恐怖」「薄氷を踏む思い」と言われた義教の、狂気・残虐性がなさしめたこととされてきた。
 しかし、本当はクジによって将軍になった義教が、幕閣が言うような神意を信じ切れず、かといって将軍であるという現実から逃避することもできず、何とかして神の意志というものを信じようとしてあがいている姿とも見えてくる。

 些細なことで殺された者にとっては大迷惑な話であるが、義教にとっては、苦渋と葛藤に満ちた12年間の将軍時代であったのかもしれない。

 (2003.4.29)

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