東大チャート 1993年度 『東京大学 第2問』の解答例と解説

ー 蒙古襲来と高麗 ー

<野澤の解答例>

A武士は惣領制に基づく血縁的結合で武士団を形成し、奉公として軍役に応じた。恩賞を求めるためには軍功(功績)を明らかにする必要があり、集団戦で戦うモンゴル軍に対して一騎討ちの個人戦で戦った。(90字)

Bモンゴルの対日戦争において高麗は対日交渉の先導役であり、装備や兵員を供給させる場であった。しかし高麗政府が日本への使節派遣を妨害したり、人民が政府屈服後も長期間抵抗を続けたりしたことは、戦争の実施が遅れる原因となった。
(120字)

 
<解説>
 に関しては、あまり解説の余地はないのではないか。
 封建制度というのは、「将軍と御家人とが土地を仲立ちとして御恩と奉公の関係で結ばれている制度」である。そして本領安堵や新恩給与といった御恩を受ける代わりに奉公として平時には京都大番役などの番役勤士(ばんやくごんじ)を勤め、戦時には軍役に応じる。
 蒙古襲来の時の御家人も愛国心から戦ったのではなく(そういう人もいたかもしれないが)、あくまでも奉公としての軍役負担に応じたのであって、軍功をあげれば御恩として恩賞が得られるはずだった。だからこそ個人戦で戦ったのである。
 この問題において、受験生にとって一番難しかったのは、武士団から惣領制を導くことではなかったか。「血縁的結合に基づく惣領制が鎌倉後期には解体し、地縁的結合にかわっていく」という内容は、すべての受験生が知っていると思う。それと今回の問題とを結びつけることができれば、導き出せたと思う。

 に関して
 問われていることが、政府人民は、この戦争でどのような役割を果たしたか」なので、王室=政府軍隊=人民という書き方で解答例を作成した。
 ぼくが迷ったのは、最後の「決め」を「対日戦争の実施が遅れる原因となった」で止めるか、「失敗の原因となった」まで書くかであった。

 与えられた資料の読み取りだけなら、「遅れる原因となった」で構わないと考える。
 
 しかし従来よりよく言われる説に、資料にある「日本征討用の軍船」の建造にあたっては、高麗の人民が抵抗の意味で手抜き工事をしてもろい構造になっており、このことがモンゴル軍に甚大な被害を及ぼしたというのがある。もしそうなら、「対日本戦略に与えた影響として、「対日戦争が失敗する原因となった。」と言えると思う。
 しかし元の官吏王ツは「唯だ勾麗(高麗)の船は堅く全きを得、遂に師を西還す」 としており、高麗船が頑丈だったことがうかがえる。また、近年、長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」で発見された元寇沈没船の調査の結果、元寇船の船底は二重構造で頑丈に造られていたことが判明し、調査担当者から「元軍船は丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」という粗製乱造説に否定的見解が示されている。

 また、文永の役の後、高麗から出された上表文の中には、「三別抄の乱を鎮圧するための大軍に多くの兵糧を費やした」ことが記されているが、弘安の役までの間にフビライは重臣の進言を受け入れて、国力の回復をはかって日本遠征を延期している。

 これらのことを考えると、高麗政府や人民の行為が、モンゴルの対日戦争の失敗となったとまでは明言できないと考え、ぼくとしては解答例のような答案を作成した。

<余談>
 Aの問題でも見られるように、「元軍は集団戦術、日本軍は一騎打ち」と言われていたし、新課程の山川『詳説日本史B』でもそのように記されている。
 しかし論拠の一つとなっている『八幡愚童訓』は後世に八幡神の神徳を主張するために書かれた書物であり、最近の研究では、実際は日本側も集団戦術を取っていたという意見が出されるようになった。事実、『蒙古襲来絵巻』絵五では武士たちが騎兵を密集させて戦っている様子が描かれており、東大の問題ではあるが、このAの解答例も今後は怪しくなっていくかもしれない。

 
2013.1.6

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