『飛鳥時代〜奈良時代編4 奈良時代の政治/平城京と国土の開発』

【1】 先土器時代 (P.1)(P.17〜18)

 奈良時代は約10年ごとに藤原氏と皇族出身者が政権を交代している時代だと思えばよい。例外が道鏡
  政権担当者(藤原不比等→長屋王→藤原四子→橘諸兄(ろえ)→藤原仲麻呂→道鏡→藤原百川)の順番は、いろいろな語呂合わせがある。自分が気に入ったもので、しっかりおさえること。
 個人的に「うまい!」と思っているのは、拙著『やりなおし高校日本史』でも紹介した、教育実習生だった村上拓也氏が考案した
 
です。これをベースにして、長屋王の変729藤原広嗣の乱740橘奈良麻呂の乱757恵美押勝の乱764を入れる。 

1 藤原不比等の時代
 700〜710年代
藤原不比等の時代である。和同開珎(708)から養老律令718)までだと考えて良い。
 710年代だから、当然、
平城京遷都がくる。都を移したのが元明天皇だということは、平安京に遷都したのが桓武天皇だというのと同じレベルで重要。平城京遷都は710年だから、和同開珎鋳造(708)、蓄銭叙位令(711)、古事記完成(712)なども元明天皇の時だと判断できる。
 
和同開珎からの流れで出される皇朝十二銭は最初の和同開珎と最後の乾元大宝(村上天皇)がわかれば十分である。

 ここで難問。平城京造営は労働した人々に報酬を支払って行われた。これを雇役といい、携わった人を雇丁という。実は和同開珎は平城京造営の1日分の報酬であった。和同開珎が雇役の報酬として意味をなすためにも、銭に価値がなければならなかったわけである。蓄銭叙位令にはそうした意味もあった。(実は回収した銭をもう一度賃金として支払っていた。セコイ・・・。)

 さらにOne pointのやや難問。720年をはさむ数年間は、元正天皇である。具体的には、養老律令(718)、日本書紀(720)、そして次の百万町歩の開墾計画(722)、三世一身法(723)にあたる。
 細かいことを言うと、724年の多賀城設置から743年の「墾田永年私財法」と「盧舎那仏(大仏)造立の詔」までが聖武天皇(749年に譲位)の時代である。

2 長屋王の時代
 720年代
長屋王の時代。百万町歩の開墾計画(722)と三世一身法723)は言うまでもないが、多賀城設置も724年だから、長屋王の時代である。ここで盲点の入試問題。「(  )の伝統により左大臣となった長屋王は・・・」さてこの空欄は何か?。長屋王が皇族であったことを考えると、皇族出身者で要職を占める制度、つまり皇親政治ということになる。皇親政治というと天武天皇のところに出てくるが、こういう場面で応用が効くことが大切。
 
3 藤原四子の時代
 730年代藤原四子の時代。四子(南家=武智麻呂/北家=房前/式家=宇合/京家=麻呂)は全員覚えること。「北家房前が、後に最も発展する家なので、出題頻度が一番高い。四子は妹の光明子聖武天皇の皇后につけようとする問題で長屋王と対立し、これを自害に追い込む(長屋王の変729))。藤原四子は仲が良く、4人全員が公卿になるなどそろって出世したが、737年、遣唐使が持ち帰った天然痘で全員死亡した。次に政権を握ったのは皇族出身の橘諸兄であった。彼は738年に右大臣になると、藤原氏を排斥し、唐から帰国したばかりの吉備真備と法相宗の僧玄ムを重用した。(エピソード『その時歴史は動いた ー藤原房前、参議となるー』

4 橘諸兄の時代
 740年代橘諸兄の時代。内容が豊富なので1つ1つ整理すること。
 「藤原広嗣(式家)が大宰府で反乱を起こした(740)」ことに衝撃を受けた聖武天皇は、「恭仁京に遷都(740)」し、翌年、ここで「国分寺建立の詔741)」を出す。さらに743年には紫香楽宮で「墾田永年私財法」と「盧舎那仏(大仏)造立の詔」が出されている。
 墾田永年私財法には元来、「身分に応じて開墾面積に制限があった」ことは知っておかなければならない。
 
 都の変遷については、仁京→波京→香楽宮の順で、と数字が減っていくと、ぼくは覚えた。
 なお、恭仁・難波・紫香楽が、京か宮かということについてだが、余り気にしなくて良い。恭仁京と紫香楽宮はこのままだが、難波については、教科書によって、宮と京の違いがあり、“恭仁・難波・紫香楽”と記して、断定を避けている教科書も複数ある。同じ出版社でも筆者の立場によって、違っている場合もある(具体的に言うと、山川出版社は三種類の日本史Bの教科書をだしているが、そのなかの『詳説日本史B』は、“恭仁京・難波宮・紫香楽宮”であるのに対して、『高校日本史B』には、京も宮もなし。さらに『新日本史B』は、“恭仁京・難波京・紫香楽宮”となっている)
 従来は難波宮が一般的であった。しかし近年、「聖武天皇のころには京域が敷かれていた」という研究が出されている。ぼくは、今後、難波京に統一されていくのではないかと考えているので、あえて難波京とさせてもらった。

5 藤原仲麻呂の時代
 
諸兄を失脚させたのは、光明子の信任を得た南家(武智麻呂の第2子)の藤原仲麻呂であった。750年代仲麻呂の時代ということになる。光明子にとっては甥にあたる。749年、政治に関心のなかった(病気ではあったが)聖武天皇が譲位して娘の孝謙天皇が即位した。孝謙天皇の時のイベントは大仏の開眼供養752)である。
 756年、聖武天皇が死ぬと、仲麻呂は翌年(757)の「橘奈良麻呂の変」を鎮圧して地位を固め、聖武の決めた皇太子を廃して、
淳仁天皇を擁立し、天皇から恵美押勝という名を賜る。(だから藤原仲麻呂と恵美押勝は同一人物だよ。)仲麻呂の時代は異様に中国かぶれの時代であり、皇后宮職を紫微中台としたのをはじめ官職名が唐風された。また、やや難問として、民情を視察する令外官として問民苦使が設けられたり、開基勝宝という最初の金貨を造られたりしている。
 しかし、恵美押勝(仲麻呂)の権力も、その後ろ楯であった光明皇太后(皇太后とは天皇→太上天皇(上皇)と同様に、皇后→皇太后だと考えて可)が死ぬと陰りが見えた。代わって台頭したのが、孝謙上皇の病を法力で直した法相宗の坊主であった。これが道鏡である。恵美押勝はこの道鏡を除こうとして挙兵し、敗死(764)した。淳仁天皇は廃されて淡路へ流され、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となった。

6 道鏡の時代
 
760年代後半道鏡の時代ということになる。この時代には、新しい土地の開墾に制限が加えられた(寺院以外の加墾禁止)(765)が、彼の失脚後、この規則も廃止され、無制限の開墾が認められるようになり(772)、公地制は大きく崩れることとなる。彼は仏教政治を進めるが難問として、彼が就いた「太政大臣禅師→法王」がある。
 しかし受験生にとって道鏡の時代の最大のイベントは、道鏡を次の天皇にという神の御告げがあったという事件、すなわち宇佐八幡宮神託事件である。これは和気清麻呂らによって阻止され、道鏡は称徳天皇が死ぬと同時に、下野国薬師寺の別当に左遷された(770)。

 なお、下野国薬師寺は、この時代、僧侶の国家試験が行える3つの戒壇(東大寺戒壇院、筑紫国観世音寺、下野国薬師寺)の一つであった。

 さていわゆるバージンクイーンだった称徳天皇には後継者がおらず、藤原百川らは天智天皇の孫にあたる光仁天皇を擁立した。ここにいったて天武系から天智系に皇統が移り、今日に至っている。

 <最後に頻出問題
橘諸兄のブレーン=遣唐使帰りの吉備真備と僧玄ム ⇔ 大化改新時の国博士=遣隋使帰りの高向玄理と僧旻
○発布された場所:国分寺建立の詔=恭仁京 ⇔ 盧舎那仏(大仏)造立の詔=紫香楽宮
○政権担当者:三世一身法=長屋王 ⇔ 墾田永年私財法=橘諸兄
間違わないようにして下さい。(窓「出題ミスに振り回されるな!」へ)

 しかし、とにかくこの部分は、史料編の『土地制度史』や『仏教史』『貨幣史』を参照しながら正確におさえて欲しい。

【1】 先土器時代 (P.1)(P.18)

1 平城京
 唐の都長安にならっていることは小学校レベル。都は条坊制で区画(田は条里制)。中央に朱雀大路が通り、平城宮は北端にある。これは「天子は南面す」(天子は南に向く)から来ている。だから天皇から見て右手が右京、左手が左京となる。つまり紙上で見た目と反対になっている。東西の市の場所を問う設問は結構でる。

  

2 交通制度
 16qごとに駅家が設けられた(駅制)がこれは公用のみが使用できた。イメージがわきにくいのは、「東海道」とは地域名でありかつそこに整備された官道の名称でもあった。(東海道(地域)を通っている官道が東海道(駅路))

3 支配領域の拡大
 東北地方蝦夷が、九州南部隼人が対象である。
 東北経営は、大化の改新後の渟足・磐舟の柵(孝徳天皇)、阿倍比羅夫の水軍が秋田方面へ遠征(斉明天皇)(飛鳥時代〜奈良時代編2『律令国家の成立と白鳳文化』参照)からの流れである。712年出羽国設置、724多賀城築城=鎮守府設置であるが、ポイントは東北経営は日本海側を発展し、多賀城724ではじめて太平洋側へ出たである。
 できればこの機会に、桓武天皇の802年にはさらに北に胆沢城が築かれ、そこへ鎮守府が移されるところまでおさえておくと楽である。
 渟足柵・磐舟柵→阿倍比羅夫の遠征→出羽国→多賀城→胆沢城とN字型に進行しているイメージで持つこと。(稲作の北上と同じイメージでよい。)

                    
           (出羽国はエリアなので点ではないが、ここではイメージつくりのために出羽柵(708)の場所を示した。)


 九州は、大隅国(713)のほか、この時代に鹿児島南部の島々(薩南諸島)も服属したことがわかればよい。

4 鉱産物
 「武蔵国からが出た」ということが和同開珎鋳造の理由とされており、一番大事。後は、「陸奥国=金」「周防国=銅」ぐらいかな。「対馬国=銀」「越後国=燃える水(石油)」なんてのもあるが、難問。

(2003.7.21改訂)
(2005.3.5更新)
(2010.3.2改訂)
(2011.2.26.東北経営の地図を追加)
(2012.11.29加筆)
(2017.5.28都の変遷部分を加筆)
(2024.6.11 語呂合わせを加筆)

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