『原始〜ヤマト政権編2 弥生文化』

【1】 先土器時代 (P.1) (P.3〜4)

 弥生時代は、紀元前5〜4世紀ごろから紀元後3世紀ごろまで。西日本中心に九州から青森まで分布。ということは、北海道と沖縄には弥生文化はない。北海道・沖縄は本州が弥生時代に入った後も、それぞれ北海道→続縄文文化沖縄→貝塚文化とよばれる狩猟・採集の経済を営んでいた。
  さて、東北に弥生文化が伝わるのが遅れた主な理由は2つある。一つは「気候が寒冷で稲作に適さなかったこと」だが、もう一つは何か。ここで、「縄文文化は東日本中心」であり大きな遺跡は、東北地方に多いことと結びつかなければならない。つまり、「東国は、自然が豊かであり、採集経済で十分に生活ができたため、すぐに稲作文化を取り入れる必要がなかったから」である。

1 背景と特徴
 弥生文化は中国に現れたという統一王朝の強い影響をうけている。特徴は、金属器の使用と水稲耕作
 
2 金石併用
 弥生時代は金石併用時代であり、金属器だけでなく、石器も使われてた。農耕用具として石包丁を思えば、石器が使用されてたことは、わかる。
 日本には「青銅器と鉄器はほぼ同時に入ってきた」ので、青銅器は祭りや儀式で使う「祭器」、利器(実用品)は鉄器という図式になっている。青銅器の分布地域は、銅鐸が近畿地方中心をおさえておけば、何とかなる。(平方銅剣が瀬戸内中心、銅鉾(銅矛・銅戈)が北九州中心だから、正確に1つ覚えておけば、正誤問題には対応できる。)銅鏡の「三角縁神獣鏡」は、一時期ちょっとはやった。卑弥呼の鏡などとか言われてたけど、かなり怪しくなっている。

3 弥生土器
 名称の由来は「発見された地名=東京都弥生町遺跡」である。弥生土器は、「高温・赤褐色・薄手・固い」(薄手で赤くて固い)(エピソード「土器を掘った男」へ)のは言うまでもないが、ポイントは「用途に応じて形が違う」である。これは縄文文化で述べた通り。「貯蔵用→壺」「煮炊き用→甕」だが「盛り付け用→高杯」が一番出るね。かつては「米を蒸した→甑(こしき)」というのがあったが、「米を蒸した」という説自体が怪しくなっており、出題頻度は低いと考える。

4 水稲耕作
 難問一発。日本の米は短粒種であるジャポニカ種。反対に長粒種はインディカ種。京都の某私大などで出題された。水田は「湿田→乾田」と移った。かつては農作業のキーワードとして、「直播きして石包丁で穂首刈り」とされていたし、ぼくも長い間そう教えていたが、現在ではすでに田植えが行われていたことが分かっている。つまり前期は「直播きして石包丁で穂首刈り」だが、のちには鉄製農具が普及し「田植えして鉄鎌で根刈り」のイメージでよいと思う。
 さらに、用途に応じて様々な木製農具が作られている。木鍬(くわ)、木鋤(すき)、竪杵(たてぎね)、木臼、田下駄、田舟は用途とともに、図でも答えたい。実際センターでは竪杵の図がでた。竪杵はもちろん木臼とともに脱穀用である。また、田下駄を履き物のルーツとして問うユニークなものや、肥料を踏み込んだ「大足」を聞く荒技も出たことがある。
 なお、鍬や鋤ははじめは刃先まで木製であってが、鉄の普及によってU字型の鉄刃先を付けるようになった。
 収穫物を高床倉庫や貯蔵穴に蓄えたことは、言うまでもない。 

5 「むら」の発展と習俗
  この時代の人々も基本的には竪穴住居に住んでいる。2世紀後半には、小国(といってもムラでしょうが)の対立が激しくなり、いわゆる『後漢書東夷伝』(次章参照)にでてくる「倭国大乱」の時代を迎える。この結果、防衛的な目的を持つ高地性集落環濠集落がつくられた。(勘違いのないように。高地性集落などは弥生時代のものであって、古墳文化ではないよ。)
 葬制は屈葬から伸展葬にかわり、土壙墓や、箱式石棺墓・方形周溝墓(方形の低い墳丘の周りに溝)がつくられるようになった。大きな甕をつかった甕棺墓が北九州でみられ、とくに支石墓甕棺墓の上に巨石)は、朝鮮半島の影響と考えられている。
 機織り技術が伝わり、衣類として男性は袈裟衣、女性は貫頭衣を用いていたと考えられている。また豚の飼育もしていた。

6 遺跡
 主な遺跡とキーワードは次の通り。「静岡県・水田跡・高床倉庫→登呂遺跡」「奈良県・木製農具多数→唐古・鍵遺跡」「島根県・大量の銅剣→荒神谷遺跡」「佐賀県・環濠集落→吉野ケ里遺跡」「福岡県・(合口)甕官墓→須玖(須玖岡本)遺跡」
 なお、唐古・鍵遺跡も環濠集落である。

(2003.4.27改訂)
(2005.2.27再改訂)

(2007.4.28加筆)

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