『原始〜ヤマト政権編1 先土器文化・縄文文化』

第1部 原始・古代
 第1章 日本文化のあけぼの

【1】 先土器時代 (P.1)(P.1)

 今の受験生にはピンとこないかもしれないが、この時代は2000年に捏造問題が発覚し、大事件となった時代である。大分県の聖岳人骨、宮城県の座散乱木遺跡・上高森遺跡、葛生人骨をはじめとする化石人骨の年代が間違っていたことなどが盛んに報道され、センターテストや早稲田をはじめとする入試問題にも「こんな問題にも影響を与えました」と紹介された。
 センターテストや有名大学の入試問題は、出題ミスがあるとニュースになるため、出題するには勇気がいる分野であり逆に言えば、確実なことだけ正確に覚えれば楽勝だとも言える。

 今から1万年前より前を、地質学的には更新世、気候区分では氷河期、世界史的には旧石器時代、日本の考古学的には先土器文化(無土器文化)の時代という。これらは同じ時代のことを、視点をかえただけである。

 このころ、日本は大陸と地続きであり、大型動物が大陸から渡ってきたと考えられている。植物は針葉樹林、これは寒い氷河期であったことを考えればわかる。
 旧石器時代とは、打製石器のみの時代。打製石器の変遷。『握槌(ハンドアックス・打製石斧など)→石刃(ブレード・ナイフ形石器)→尖頭器(ポイント)→細石器(マイクロリス)』という流れは、石器の図とともにおさえておきたい。自分で図を書いてみれば確実に覚える。

   

 遺跡の目玉は、言うまでもなく、「群馬県岩宿遺跡発見者相沢忠洋関東ローム層赤土の層である)」の組み合わせ。この岩宿遺跡が発見されるまでは、日本に先土器文化の時代はないと考えられていた。世界史的には石器による区分が一般的なのに、日本だけが縄文時代とか弥生時代とかいったように、土器による時代区分がなされているのはそのためである。
 原始の遺跡を覚えるときのポイントは、ただ遺跡名を数多く覚えるのではなく、「どこ」の「何という遺跡」が「どういう特徴」をもっているのかを1つ1つ確実におさえていくこと。例えば「長野県野尻湖(野尻湖底遺跡)のキーワードは、ナウマンゾウの骨と打製石器が同時に発見された」という具合である。
 この時代は、化石人骨もかつては出題されたが、最初に述べた遺跡と同じ理由で、岩宿遺跡と野尻湖底遺跡以外の出題は少ないと思われる。

【1】 先土器時代 (P.1) (P.2)

 縄文時代は、1万年前から、紀元前4世紀ごろまでだと考えられている。(変わっていく可能性はあるけど)
 縄文文化は「東日本中心に全国」に広がっている。全国だからもちろん、北海道から沖縄まで

 とにかく時代のイメージをつかんで欲しい。気候が温暖化したことがすべてをつなげる。
「気候が温暖化して氷河期が終わる→海面上昇→日本列島が大陸から切り離されて成立した。」
「気候が温暖化した→食料が豊富になった→定住生活を営めるようになった→竪穴住居の集落ができた。」
旧石器時代の人々は、食料確保が不安定だから移動生活をしていた→「洞窟」や「簡単なテント式の小屋」に住んでいた。)

 地質学的には完新世の時代。(今も、もちろん完新世) 気候が温暖化したから植物も、針葉樹林から広葉樹林や照葉樹林へと変わっていった。

1 石器
 考古学的には新石器時代、すなわち磨製石器が使われるようになった時代。ただし、「磨製石器とともに打製石器も使われている
 これは発達の過程というより、用途に応じている。(石鏃(やじり)などは磨くより打ち欠いて尖らせた方が鋭い。)
  この時代のポイントとなる石器は、石鏃、石匙、石錘、石皿+すり石の4つ。石鏃は弓矢の矢尻(やじり)。この時代の重要な発明品に弓矢があった。これによって、イノシシや鹿のような動きの早い中小動物をとらえることができるようになった。石匙は動物の皮を剥いだと考えられており、かつてセンターテストでも写真で出題されている。石錘は、漁業の時の網の重りと考えられており、縄文時代に、漁撈(漁労で可)が盛んになったことを示している。自分で絵を書いてみたら覚える。加えて、石皿とすり石はセットで植物性食料のすりつぶしに使われた。

2 土器
 縄文土器は、「低温・黒褐色・厚手・もろい」。それに加えて、縄文土器は「時代によって形が違う」がポイント。(反対に弥生土器は「高温・赤褐色・薄手・固い」に加えて、「用途に応じて形が違う」
   「草創期→早期→前期→中期→後期→晩期」の特徴は絵に書いて覚えたい。「丸底で不安定(草創期)」→「尖底で地面に突き刺す(早期)」→「平底で安定(前期)」→「派手になった火炎土器(中期)」→「用途によって多様化し、注口土器出現(後期)」→「亀ケ岡式土器と呼ばれる芸術的な小型土器(晩期)」といったところか。
 また、縄文土器の名称の由来は、「表面につけられた縄目の文様から」だが、初期のものには縄文の文様がない

    

3 生活
 旧石器時代(先土器文化の時代)の人々が、「洞窟」や「簡単なテント式の小屋」に住んでいたのに対して、竪穴住居を水辺に近い台地上に営むようになった。水辺に近い台地上」は考えたら分かる。川岸に建てたら増水したら流される。
 この時代から弥生時代にかけての竪穴住居は、「円形で中心に炉
が作られていた。それに対して古墳時代から平安時代初期のものは、「方形で隅に竈(かまど)」が作られている。  
 ごみ捨て場を貝塚というが、これは「馬蹄形」に広がっている。この「馬蹄形」という言葉も受験用語だけど、どうしても思い出せなかったら、「U字形」と答えてもをもらえる。貝塚の中でも、日本考古学発祥の地である大森貝塚とその発見者であるモース(アメリカ人動物学者)は絶対。
 交易の証拠とされている黒曜石長野県和田峠硬玉(ひすいでも可)の新潟県姫川流域は必須。
 木器の使用は、弓矢のことを考えればわかる。漁撈(漁労)の発達に伴って、釣針や銛に動物の骨や角から作られた「骨角器」が用いられたことも、この時代の特徴。
 結構、いろいろなものを食べており、遺跡からは70種以上の魚の骨が発見されており、丸木舟で沖合まで出てマグロやカツオを骨角器の銛などで獲ったり、石錘をつけたでの漁もしていた。また、虫歯を持つ人も多く、縄文時代でも炭水化物食品を食べていたことがわかる。稲作が本格化する前の縄文時代に得ることができた炭水化物食品は,ドングリやトチノミなどの堅果類である。ドングリやトチノミなどを石皿とすり石ですりつぶした後,水にさらしたり,土器で煮たりしてあく抜きを行い,クッキーのようなものにして食べたと考えられる。
 習俗としては、
・精霊崇拝であるアニミズム(迷ったら「数字の小さい順」つまり、「ア23ズム」)。
・埋葬方式としては屈葬が一般的。これは「死霊の復活を恐れたため」という説が有力(本当はわからないけど)。弥生時代になると伸展葬が一般的になるので、比較でだされる。縄文時代の墓にも、まれに副葬品をともなうものがあるが、それらも共同墓地の一角に葬られており、規模やつくりは他の墓とほとんど差がないため、個人が生前身に付けていたものを納めたり、指導者への敬意をあらわすものであり、社会的な身分差はなかったと考えられる。
土偶は、「女性をかたどったものが多いため、多産や豊作を祈ったのではないか」といわれている(わからないけど)。 
・成人儀礼は抜歯。歯に切れ込みをいれる叉状研歯は現役生には難しい。
 この他、男性器をかたどったとされる石棒なんてのもあるね。
 
4 遺跡
 遺跡の主なものとそのキーワードは次の通り。
 「八ケ岳山麓の大集落→長野県尖石」「秋田県・環状列石→大湯環状列石」「考古学発祥→大森貝塚(東京都)」までは基本。その他、「千葉県・巨大貝塚・竪穴住居→姥山貝塚」「愛知県・多数の人骨→吉胡貝塚」「縄文晩期の代表的な土器→亀ケ岡遺跡(青森県)」あたりが出るようだ。そして最大の大物、三内丸山遺跡青森県)は、中学校の教科書にも載っている。巨大な集落であり、掘立柱の巨大建物跡があり、栗の栽培など原始的な農耕も行われていた。
 「鳥浜貝塚=縄文文化のタイムカプセル、丸木舟」は関西の某大学の難問。この時は、縄文晩期の農耕遺跡として、佐賀県菜畑遺跡も出題されてた。縄文晩期の水田跡というと、従来は福岡県板付遺跡がメジャーだったが、現在では菜畑の方がよくきかれるようである。
 この菜畑と板付だが、最近では弥生時代の遺跡としている教科書もある。例えば山川の教科書では脚注に「一部で稲作が開始されていながら、まだ縄文土器を使用している段階を、弥生時代の早期ととらえようという意見もある。」と記している。水田跡→弥生時代ということだろうが、ぼくは釈然としない。そもそも縄文時代、弥生時代というのは土器による区分である。縄文土器の時代に稲作が行われていたのなら、縄文時代=採集経済という図式の方を見直すべきだと思う。まぁ、一番無難な覚え方は、菜畑、板付は縄文時代から弥生時代への移り変わりを示す遺跡という認識であろう。

(2003.4.27改訂)
(2005.2.27加筆)
(2007.4.28加筆)

(2010.3.2改訂)
(2022.1.1縄文時代の埋葬方法に加筆)

(2022.1.1縄文時代に食生活(漁労と採取)を加筆)

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