頂いた質問から(15)

『戦前の首相の選ばれ方と元老について』


 頂いた質問から(14)『徳川家斉の財政政策について』の続編である。(質問を受けた順番は、こちらの方が先)

 質問者は、関東の某国立大学教育学部志望の山梨県の高校3年生男子M君(実際には、きちんと志望校名、実名を名乗っている)である。

 

<いただいた質問>
 近代史
 
戦前の首相の選び方についてです
 初めは適当に決められ、内閣も議会を無視して作られたと教わりましたがそんなことってあるんでしょうか?

 また、その後は元老によって決められていたと教わったのですが、
そもそも元老とはなんでしょうか
 天皇に助言する、憲法規定のない機関ということは教わりましたが、元老が何故できたのか、何がしたいのかということがわかっていません。

 
 現代史
 55年体制の崩壊についてです。
 非自民共産の連立内閣ができたことはわかりますが、
何故55年体制が崩壊する必要があったのかわかりません。


  

<野澤からの返事>
 M君、はじめまして。野澤道生です。
 ぼくのつたないHPを見てくれてありがとう。

 志望校を見ると日本史が必要なのはセンター試験だけですよね。
 時々、「センター試験が良問だというのはウソだ。」と言っている教員や予備校関係者がいますが、こと、日本史に関しては、学習指導要領に本当に忠実に作られています。そして、『試験問題評価委員会報告書』が毎年作成され、公開されるので、いわゆる難問・奇問はでません。消去法でなければ正答が判断できない問題もダメです。
 ですから、教科書にないもの、あるいは教科書の内容から自然に類推することができないものは出ません。
 史料問題は、教科書にあるものが一つ、初見が一つ。初見のものは読み取りです。地図が必ずでます。
 これらも学習指導要領で求められていることです。センター試験の日本史は良問です。

 そうなると、問題なのは、君が教科書レベルの基本的な内容をどの程度まで理解できているかということになります。それをまず、確認させてください。そうでなければ的を外したアドバイスをすることになりますから。

内閣総理大臣の選ばれ方について
 明治初期から昭和初期までの内閣の変遷について、以下の言葉を用いて簡単に説明できますか?
 
太政官制藩閥内閣制度超然内閣(超然主義)初期議会隈板内閣立憲政友会原敬内閣憲政の常道

元老について
 次の言葉の意味とその背景がわかりますか?
 
桂園時代


 なお、3つめの「
55年体制崩壊」については、ここで説明します。
 ただ、55年体制関係は、できた背景についての理解は絶対に必要ですが、崩壊については、センターレベルではさほど重要ではありません。

 自民党による長期政権下での相次ぐ金権問題(汚職事件)で、国民の政治不信が高まりました。これに対して自民党内でも、選挙制度改革や政治資金規制強化などのいわゆる政治改革の気運が高まりました。
 しかし、自民党内は守旧派と改革派に分かれて激しく対立し、政治改革を実現できませんでした。宮沢喜一首相も、必ずしも政治改革には積極的ではありませんでした。そのような中、宮澤内閣が不信任決議を突きつけられると、改革派であった羽田・小沢派(羽田孜、小沢一郎のグループ「改革フォーラム21」。後の新生党)らが、不信任決議案に賛成。不信任決議案は可決され、衆議院は解散・総選挙となりました。自民党からは、羽田・小沢派だけではなく、武村正義ら(→新党さきがけ)も離党。自民党は衆議院議員選挙で過半数割れをおこし下野することとなりました。


<この後、M君から返事があり、それに対する野澤の回答>
 M君、大体、分かりました。
 用語そのものは理解しているようですね。問題はその意義です。

 明治新政府の最初の体制は、律令制下の
太政官制を復活させたものでした。その中心となったのは、薩長を中心とする藩閥です。この藩閥政府に対する反発の一つが自由民権運動です。
 
内閣制度が発足しても、総理大臣以下閣僚の多くは藩閥出身者でした。政党との関係は、憲法発布時に当時の黒田清隆首相が、政府は政党の意向に左右されないという超然主義を声明しているとおりです。そのため日清戦争までの藩閥政治家中心の内閣と議会とは厳しく対立しました。これを初期議会といいます。

(おそらく先生は、この時代のことを総理大臣も適当に選んだと言われたのではないでしょうか。ただ、初代が伊藤博文になったことについては、次のようなエピソードもあります。
 太政官制から内閣制度への移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるか。太政大臣として名目上政府のトップに立っていたのは三条実美です。しかし、大久保の死後、事実上の政府を切り回し、当の内閣制度を作り上げたのは伊藤でした。三条は高貴な身分。一方伊藤といえば、貧農の出で武士になったのも維新の直前。一応、伯爵にはなっていますが、その差は歴然でした。公家連中は当然、名誉ある初代は三条だと思っています。ところが、初代総理を決める宮中での会議で、井上馨が「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山県有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成しました。これには三条を支持する保守派の公家たちも反論ができませんでした。ここに初代総理は伊藤となります。これを契機として維新以来、徐々に政府の実務から外されてきた公卿出身者の退勢は決定的となりました。以降、公家からは総理大臣はおろか、閣僚すらなかなか輩出できない状態となりました。なお、西園寺は名家の出ですが、あくまで政友会総裁として首相となっていますし、近衛文麿もトップ貴族だからという理由ではなく官僚としてです。)


 そういう意味では、内閣制度発足ごろの超然主義においては、内閣は議会を無視して作ったという先生の言葉はその通りです。ただ、総理大臣は適当に決まったというわけではなく、その時々の政治的駆け引きの中で決まっていったのです。当たり前のことですが。

 続けます。
 この「その時々の政治的駆け引き」が表に出るのが、日清戦争後です。日清戦争前にも、自由党が第2次伊藤内閣に協力していました(エピソード 『自由党が伊藤内閣に協力した理由』)が、日清戦争後は、政府は議会運営を円滑にするために政党に接近し、また政党も自分たちの政策を実現するために政府と提携するようになりました。自由党は第2次伊藤内閣を公然と支持し、続く第2次松方内閣には、立憲改進党改め進歩党が協力しました。いわゆる松隈内閣です。
 しかし、第3次伊藤内閣は、総選挙で伸び悩んだ自由党との提携を解消し、超然主義に戻りました。これに対して、伊藤に捨てられた自由党と進歩党が手を組んだわけです。衆議院に絶対多数を持つ憲政党ですね。ここに日本最初の政党内閣である
隈板内閣が成立しました。隈板内閣は内部分裂で短命に終わりますが、衆議院運営の重要さを痛感した伊藤は自ら政党の結成に着手します。そして誕生したのが立憲政友会です。伊藤は、自らが組織した立憲政友会を率いて第4次内閣を組織しましたが、今度は貴族院の抵抗に苦しめられ、退陣します。
 これ以後、ツートップであった伊藤と山県有朋の後継者である西園寺公望と桂太郎が政治の表舞台に立ち、伊藤や山県は第一線を退いて、天皇に総理大臣を推薦する
元老という立場で、蔭のキングメーカーとして政治的影響力をふるうようになりました。
 これ以降、首相は元老の推薦を受けて決定されるようになります
 宮本君も授業で、「アジア・太平洋戦争が開戦した時の首相東条英機を天皇に推薦したのは
内大臣木戸幸一」と習ったと思います。なぜ、元老ではなかったのか。これは「最後の元老とよばれた西園寺公望が、自分の後継元老を作らなかったから」です。政党政治家でもあった西園寺は、元老が首相を決めるなどというような密室政治は終わらせなければならないと考えていたようで、自分が死ねば元老制が消滅するようにしました。
 二・二六事件の後、広田弘毅を首相に推薦したのは、最後の元老西園寺公望でしたが、東条英機の時にはすでに西園寺は死去しており、元老がいなかったのです。西園寺の計らいの通り、元老政治は終わりました。

 戻ります。
 しかし、その
元老たちも民衆の意見を無視できない事件が何度も起こっています
 例えば、第一次護憲運動で藩閥出身であった桂内閣が崩壊したことも、その一つです。そしてその最たるものが、
米騒動で寺内正毅内閣が崩壊した後、成立した原敬内閣です。さすがの元老も政党政治を認めざるを得なくなったわけです。
 原敬、高橋是清内閣後に成立した加藤友三郎内閣、第2次山本権兵衛内閣は政党内閣ではありませんが、政友会が与党となっており、超然内閣でもありませんでした。しかし、清浦奎吾が貴族院を基盤として内閣を組織すると第二次護憲運動が起こります。清浦は政友会離党者と組んで、総選挙をしかけて勝負にでますが大敗しました。そして潔く退陣します。清浦奎吾も衆議院を無視して政治ができるとは思っていませんでした。
 大正デモクラシーの理論的二本柱が「民本主義と天皇機関説」であることは理解できていると思いますが、民本主義の主張は、「主権の所在は問わないが、政治の運用は民衆本位であるべき」というもので、実現の具体策が「普通選挙制に基づく政党内閣」でした。大正時代には、もう仮に政党内閣でなくても、議会の意向を無視した内閣はできなくなっていたのです。
 桂内閣を倒した第一次護憲運動は、民衆運動でしたが、第二次護憲運動はあくまで政党政治家による倒閣運動でした。この結果成立した護憲三派の連立内閣の誕生から、五・一五事件で犬養内閣が倒れるまで、「衆議院の多数党が内閣を組織する(衆議院の第一党が内閣を組織する。その内閣が総辞職した場合は第二党が組織する)」という
憲政の常道の時代を迎えます。


 この後、「日清戦争後は、政府は議会運営を円滑にするために政党に接近し、また政党も自分たちの政策を実現するために政府と提携するようになりました。」の部分などについて、再度、質問を受けた。(頂いた質問から16「日清戦争後の内閣と政党の提携について-松隈内閣を例に-」へ)

2015.1.3


コラム目次へ戻る
トップページへ戻る