頂いた質問から(14)

『徳川家斉の財政政策について』


 2014年12月31日、大晦日の晩、山梨県の高校3年生の男子生徒(きちんと名乗っているのだが、ここではM君としておく)から、質問メールを受け取った。

 彼から最初に質問を受けたのは12月21日であった。彼のメールは、多くの質問者がそうであるように、非常に礼儀正しく、真摯に聞いてくる。
 彼は、関東の某国立大学教育学部志望者で、12月の半ばにやっと学校の授業が教科書の全範囲まで終わったという生徒である。
 そのため近現代の学習内容は、かなり走った感じで、抜け落ちているところがあるのではないかという不安と、当然ながら焦りも感じられる。 

 「とにかく一所懸命」という清々しさがある一方で、「いや、君の志望校だと日本史はセンターだけでしょう。
心配しなくてもそれはセンター試験では問われないから。」と、メールを読みながら思わず声に出して言ってしまうこともある。

 ところが、返事を書いているうちに、「彼の質問は、センター試験を解くためにはあまり必要ないことかもしれないけれど、
今、分からないことを純粋に聞いてくるため、意外に本質をついている。」と思うようになった。

 これは、他の受験生、場合によっては2次試験で論述が必要な生徒にとっても役に立つことがあるのかもしれない。

 そこで、彼からもらった質問とぼくの回答を順次、紹介しようと思う。
 最初は、昨日、もらった『
徳川家斉の財政政策について』である。
 
 なお文字の色は野澤が施した。


<いただいた質問>
 こんばんは
 年の瀬のお忙しいときに質問メールをしてしまい、本当に申し訳ありません。
 山梨県の高校3年生のMです。以前に首相の選び方について質問させていただきました。
 質問する日時が非常識で本当に申し訳ありません。本当に忙しいときだと思いますので、回答はセンター試験前までにいただければ嬉しいです

 質問は、江戸時代の家斉の時代についてです。
 江戸幕府の財政が逼迫していき、享保の改革、寛政の改革などが実行されました。家斉の時代は内憂外患の時代と言われていたと記憶しています。
 なぜ家斉の時代はとても華美な時代で、逼迫していたはずの財政が無駄使い出来るほど回復しているのでしょうか?


<野澤からの返事>

 M君、こんにちは。
 あけましておめでとうございます。
 受験生には年末・年始もないですよね。頑張っている様子、何よりで
す。

 さて、御質問の件です。
> なぜ家斉の時代はとても華美な時代で、逼迫していたはずの財政が無駄使い出来るほど回復しているのでしょうか?

 センター試験ではあまり問われないレベルかもしれませんが、ある意味、歴史の本質を突いていると思います。
 これから書くことは、気楽に読んでください。

 まず、家斉時代の財政そのものなのですが、家斉が将軍職に就いた時(就いてからすぐに)、回復していたのではなく、当初は悪化しました。100万両あった幕府の蓄財は、大奥などの経費で半分になったとも言われています。

 そこで行ったのが、
貨幣改鋳です。

 受験日本史では、
出目(差益)ねらいの貨幣改鋳は、荻原重秀による元禄小判が有名(と言うより、これしか受験にはでない。「新井白石は正徳の政治で、元禄小判を改め、もとの慶長小判と同質の正徳小判を鋳造した」は丸暗記ネタ)ですが、同様のことを複数回実施しました。

 これにより、江戸の物価は上昇し、インフレとなります。しかし、幕府財政は潤いました。
 これは教科書に「品位の劣る貨幣を大量に流通させ、物価は上昇したが幕府財政は潤い、将軍や大奥の生活は華美になった。」と書かれている通りです。

 一方、NHKの番組(『ヒストリア』)で示された資料によると、家斉が改鋳を実施した1819年から上昇し、12年後には米価格が7割も上昇しました。これをとらえて現在も当時も、多くの人は、家斉財政は完全な失敗であり、「家斉は財政オンチ」と言っています。
 当時としては
恋川春町の黄表紙『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』で、家斉を延喜帝(醍醐天皇)という設定にして「ケイサイ(経済。経世済民(「けいせいさいみん」の略であり、当時はケイザイと濁らずにケイサイと言っていた)とは何の事だ、夜食の菜(軽菜、軽い食事、お茶漬け)のことか」と発言させて、笑いをとっています。
 現在だと、ネット上にある日本史関係のサイトの多くが、「家斉は子どもを50人以上もつくった精力絶倫の「
オットセイ将軍」であり、大奥に莫大な資金を投入して幕府財政を破綻に導いた」と、マイナス評価(と言うよりも酷評)で書いています。

 でも、家斉財政は本当に失敗だったのか。考えてみてください。大御所時代とよばれる家斉の親政の時期に、化政文化が花開くわけです。本当に経済危機となり国民が食うに困っていたら、文化の花が開くわけがない。

 厚生労働省が出している『物価上昇率の推移』を見ると、1960年からの12年間の物価上昇率は年平均5.5%ほど。前年度の5.5%UPですから、12年間では7割どころが約10割の物価上昇だったことになります。この時代をわれわれは何と呼んでいるか。「
高度経済成長時代」と言っているのです。

 そして、家斉の貨幣改鋳開始から12年間で7割も上がったと強調されますが、家斉財政はその後も続いたにもかかわらず、物価はそこで上げ止まっているのです。
 なぜか?
貨幣改鋳を繰り返し、通貨の流通量が増加し続けても、それに応じられるだけの物資が江戸に入れば、いわゆる「均衡価格」となるからです。(この物資流通をせき止めて、江戸をハイパーインフレに陥れたのが、水野忠邦の株仲間解散です。)

 高度成長時代に、人々がインフレで苦しんだという話は聞きません。労働者の需要と供給のバランスがとれていたため、物価上昇にあわせて、収入も増加したためです。そのためインフレ時に付きものの「貧富の格差」は拡大しませんでした。
 もちろん、高度経済成長時代にも問題はありました。その一つは経済政策優先であったために、公害問題が深刻化したこと。また、農村の過疎化が進み、地域社会の生産活動などが崩壊したことなどです。

 
家斉財政について言えば、経済活動が活発となった一方で貧富の格差は拡大しました。そして農村の一部も荒廃し、社会不安の要因をつくることにもなりました。それは教科書に「品位の劣る貨幣を大量に流通させ、物価は上昇したが幕府財政は潤い、将軍や大奥の生活は華美になった。」の続きに、「また商人の経済活動も活発になり、都市を中心に庶民文化の花が開くことにもなった。しかし、豪農や地主が力をつける一方で、土地を失う百姓も多く発生して荒廃地域が生じた。」とある通りです。

 ただし、幕府や大奥が潤っただけではなく、経済活動の活性化(好景気)により
都市は繁栄し、商人・文人の全国的交流が行われ、出版・教育が普及(商人になるためには「読み書きそろばん」は必須。寺子屋の数も増え、教育水準もあがった。)するなどのプラス面もありました。
 ですから、一方的にマイナス評価をくだすのは間違いだとぼくは思います。


 受験にはまったく関係ありませんが、家斉財政を、今、行われているアベノミクスに比する人もいます。
 「インフレターゲット2%」。アベノミクスの一つは、不景気を脱出するために通貨の流通量を増やして、経済活動を活性化するという政策ですね。2%の上昇率なら、流通の活性化によってカバーできるという見通しでしょう。知っての通り、アベノミクスに反対する人は、貧富の格差が拡大すると批判しています。
 「インフレターゲットというのは、インフレを抑えるための数値目標であって、故意に引き揚げるためのものではない」(某早稲田大学の先生)という意見もあります。
 なるほど、ちょっと似ていると思いました。

 なお、受験のためのイメージ作りだと、家斉財政は「田沼の経済政策と同じ」だと考えると分かりやすいかもしれません。
 田沼が「重商主義」(商業資本による経済の活性化)であったことは理解できていると思います。
 それに対して、いわゆる三大改革は農本主義だと言えます。
 三大改革に共通しているのは、「緊縮財政政策とリンクした倹約令」と「年貢確保のための農村復興策」です。
 例えば、寛政の改革の旧里帰農令や天保の改革の人返しの法が、「年貢確保のための農村復興策」だというのは分かると思いますが、水野忠邦失脚の原因となった上知令も「年貢増徴と海防の強化」のためです。


2015.1.1


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