頂いた質問から(16)

『日清戦争後の内閣と政党の提携について-松隈内閣を例に-』


 頂いた質問から(15)『戦前の首相の選ばれ方と元老について』の続編である。


<いただいた質問>
 もう少しだけ質問させていただいてもよろしいでしょうか。

>この「その時々の政治的駆け引き」が表に出るのが、日清戦争後です。日清戦争前にも、自由党が第2次伊藤内閣に協力していましたが、日清戦争後は、政府は議会運営を円滑にするために政党に接近し、また政党も自分たちの政策を実現するために政府と提携
するようになりました。自由党は第2次伊藤内閣を公然と支持し、続く第2次松方内閣には、立憲改進党改め進歩党が協力しました。いわゆる松隈内閣です。

 
提携、というのはどのような形ででしょうか?
 政党の政策を内閣が政策として打ち出すような感じでしょうか?
 貴族院はその時反対しなかったのでしょうか?


>
しかし、第3次伊藤内閣は、総選挙で伸び悩んだ自由党との提携を解消し、超然主義に戻りました。これに対して、伊藤に捨てられた自由党と進歩党が手を組んだわけです。衆議院に絶対多数を持つ憲政党ですね。ここに日本最初の政党内閣である隈板内閣が成立しました。隈板内閣は内部分裂で短命に終わりますが、衆議院運営の重要さを痛感した伊藤は自ら政党の結成に着手します。そして誕生したのが立憲政友会です。

 
議会運営の重要さを痛感、とありますがこれは第3次伊藤内閣の時、地租増徴案を否決されたからでしょうか?

 

<野澤からの返事>
  
 松隈内閣は、外相に進歩党の大隈重信を迎えたことからこの名がありますが、一方でこの内閣は藩閥と政党の関係の難しさを示した内閣でもありました

 ただし、これから書くことは100%センター試験にはでませんから、読み物だと思ってください。

 1896年、松方正義に2回目の組閣の大命が降りましたが、第1次松方内閣のときの第2回帝国議会での失敗(樺山資紀の蛮勇演説→衆議院解散→総選挙→内相品川弥二郎による流血の大選挙干渉→それでも民党勝利→第3議会で責任を追及され、議会閉会後総辞職)もあり、組閣は進みませんでした。
 そこへ三菱財閥の岩崎弥之助(岩﨑弥太郎の弟。三菱2代総帥)から松方に、大隈重信の進歩党との連携案がだされました。
 しかし、これも超然主義者の山県有朋(ご存じの通り長州閥)を始め、松方自身が率いる薩摩閥からも反対論が出て、思うように進みませんでした。

 松方は、大隈(外務大臣)以外の入閣は認めないが、書記官長・法制局長官、更に勅任官であった参事官の一部を進歩党系から出すという案で、進歩党側の合意を得ることができ、組閣に成功しました。実際、尾崎行雄が外務省参事官に任命されるなど、政党からの参事官起用が実現しました。
 つまり、
進歩党としては閣僚こそ大隈一人ですが、高級官僚としての本格的な政権参加が実現したのです。(実はこれが第2次山県内閣による文官任用令改正の原因ともなります。)

 一方、松方は、この提携の功績で日銀総裁となった岩﨑弥之助によって「大隈財政」・「松方財政」の悲願であった
金本位制の確立に成功します(貨幣法)

 また、
進歩党としては、要求していた新聞紙条例の改正が行われ、言論統制の一部緩和に成功します

 しかし、松方・進歩党が互いに望んでいた、この二つの課題が解決すると、もともと提携に不満があった薩摩閥系官僚と進歩党との対立が激化します。
 更に松方が財政難の解決のために「地租増徴」を提案したことで、進歩党内に倒閣の動きがおこりました。
 その結果、提携から1年後の1897年には進歩党は事実上の野党となり、直後に大隈と進歩党系参事官は辞任しました。さらに1897年12月末(25日)には衆議院で内閣不信任案が出され、可決は確実となります。

 これに対して松方は、直ちに衆議院を解散し、第5回衆議院議員総選挙が実施されることとなりました。

 ところが、衆議院を解散してみたはいいものの、松方には選挙後の政権運営の方策が全く見出せませんでした。
 なんと!松方はその日のうちに辞表を提出し、第2次松方内閣は総辞職しました。
 M君も知っての通り、現在の憲法では、内閣不信任決議案が可決された場合、衆議院の解散かもしくは内閣総辞職ですよね。これは戦前でも感覚的には同じなのです。
 
衆議院を解散してそのまま内閣総辞職を行った例は、大日本帝国憲法発布以来、日本国憲法下の現在に至るまでこの時だけという日本史上の珍事件となりました

 君の質問の中に「貴族院は反対しなかったのか」というものがありましたが、貴族院どころか当の薩摩閥自体に反対があるような状態でした。


>議会運営の重要さを痛感、とありますがこれは、第三次伊藤内閣の時地租増徴案に否決されたからでしょうか?

 それもありますが、先述の通り、地租増徴案は第2次松方内閣の時にでました。言ってみれば、第3次伊藤内閣は第2次松方内閣と同じ運命をたどったともいえます。

 地租増徴を目指して衆議院を解散したものの、政局運営の見通しが立たず総辞職した前総理松方正義に代わって、伊藤が組閣します。第3次伊藤内閣です。しかし、地租改正反対一揆からタブーとなっていた地租増徴に進歩党と自由党が協力するはずはなく、伊藤は山県系官僚の協力を得て、超然内閣を組閣せざるを得ませんでした。

 さて、松方による衆議院解散の結果行われた第5回衆議院議員総選挙では自由・進歩両党が圧勝します。しかし、解散前300議席中、自由党107、立憲改進党(のちの進歩党)49であった議席数は、自由党105、進歩党104となり、自由党は伸び悩み、進歩党の大躍進という結果でした。伊藤は、かつて協力関係にあった自由党との提携を諦めました。
 さらに進歩党と自由党が合同して憲政党が結成されます。貴族院も政権に非協力的な態度を取りました。
 
ここに伊藤は自らの政局運営の甘さを自覚し、自らが政党を結成する決意を固めます。そして、山県有朋らの反対を押し切って憲政党の大隈重信・板垣退助のいずれかを後継にするように上奏して内閣を総辞職しました。


2015.1.4


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