【3】次の(1)~(4)の文章を読んで、下記の設問A・Bに答えなさい。
(1) 1609年、徳川家康は、大坂以西の有力な大名から五百石積み以上の大船をすべて没収し、その所持を禁止した。想定されていたのは、国内での戦争やそのための輸送に用いる和船であり、外洋を航海する船ではなかった。
(2) この大船禁止令は、徳川家光の時の武家諸法度に加えられ、その後、原則として継承された。
(3) 1853年、ペリー来航の直後、幕府は、全国の海防のために、外洋航海が可能な洋式軍艦の建造を推進することとし、大船禁止令の改定に着手した。
(4) その改定の担当者は、「寛永年中」の大船禁止令を、当時の対外政策にもとづいた家光の「御深慮」だったと考え、大船を解禁すると、大名が「外国へ罷り越し、又海上の互市等」を行うのではないかと危惧した。
設 問
A 徳川家康が大船禁止令を出した理由を、当時の政治情勢をふまえて、2行(60字)以内で述べなさい。
B 幕末には、大船禁止令の理解のしかたが当初と比べ、どのように変化しているか。3行(90字)以内で述べなさい。
<考え方>
Aについて
求められているのは、
(1) 徳川家康が大船禁止令を出した理由を書く
(2) 当時の政治情勢をふまえて書く
(3) 60字で書く
ことである。
家康と大船禁止令について触れられている資料は(1)のみである。まずはこの内容を確認する。
ア 大船禁止令が出されたのは、1609年である。家康は、関ヶ原の戦い(1600)に勝利し、征夷大将軍になった(1603)となってはいたが、まだ大坂の役は起こっていない。
イ 禁止令の対象は、大坂以西の有力な大名であった。
ウ 目的は、国内での戦争やそのための輸送に用いる和船を禁止することであった(外洋を航海する船が対象ではなかった)。
これと関連する教科書の記述とを照らしあわせる。1609年頃の政治情勢は、教科書(山川『詳説 日本史B』P.170)に
天下分け目といわれる戦いに勝利した家康は、西軍の諸大名を処分し、(略)。また全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請を、また国単位に国絵図と郷帳の作成を命じて、全国の支配者であることを明示した。しかし、摂津・河内・和泉60万石の一大名になったとはいえ豊臣秀頼がいぜん大坂城におり、名目的に父秀吉以来の地位を継承していた。1605年、家康は将軍職が徳川氏の世襲であることを諸大名に示すため、みずから将軍職を辞して子の徳川秀忠に将軍宣下を受けさせた。(略)豊臣氏が建立した京都方広寺の鐘銘を口実に、1614~15年、大坂の役で豊臣方に戦いをしかけ、攻め滅ぼした。
家康が、近いうちに豊臣秀頼を滅ぼさねばならないと考えていたこと。西国には豊臣氏恩顧の大名が多く、将軍職が徳川の世襲であることを示さなければならないなど幕府の体制が確立していない状況の中、彼らが豊臣側に味方する可能性は十分にあったこと。それと、資料の内容をあわせて、次のような組み立てができる。
ア 幕府の体制が確立していない状況の中、豊臣恩顧の西国大名たちは、大坂城で秀吉以来の地位を継承している豊臣秀頼に味方する可能性があった。
イ そのため、合戦(実際には大坂の役)に備えて彼らの軍事力を削減する必要があった。
イ 軍事力を削られた結果、豊臣秀頼に味方をしても勝ち目がないと思わせることで、秀頼から西国大名を引き離す(秀頼を孤立させる)ねらいがあった。
これを60字でまとめればよい。
とまぁ、資料と教科書の内容だけから答案をつくるとこれが限界かと思う。
実は、豊臣氏恩顧の多くの大名が関ヶ原の戦いで徳川側につき、戦後、大幅に加増されているのである。具体的には、前田利長(加賀・越中・能登)、福島正則(安芸・備後)、小早川秀秋(備前・美作)、堀尾忠氏(出雲・隠岐)、加藤清正(肥後)、黒田長政(筑前)、細川忠興(豊前)、浅野幸長(紀伊)、田中吉政(筑後)、山内一豊(土佐)、中村忠一(伯耆)、京極高次(若狭)、京極高知(丹後)である。しかし彼らの多くは加増された代わりに、西日本へ移封となった。
例えば、後に武家諸法度違反で改易となる福島正則は、尾張・清洲(愛知)20万石から安芸・備後(広島)50万石へと移封された。浅野幸長は甲府(山梨)23万石から紀伊(和歌山)38万石となった。また、加藤清正も小西行長の領地を加えられ、25万石から52万石へとなっている。この3人は、「七将」と呼ばれる豊臣秀吉子飼いのメンバーだkが、この七将は関ヶ原では全員東軍についた。
関ヶ原の戦いで東軍についた豊臣恩顧の大名の例 | ||||
(所領は居城の場所。石高は四捨五入) | ||||
大 名 | 旧所領(県名) | 石高(万石) | 新所領(県名) | 石高(万石) |
前田利長 | 加賀(石川) | 84 | 加賀(石川) | 119 |
福島正則 | 尾張(愛知) | 20 | 安芸(広島) | 50 |
小早川秀秋 | 筑前(福岡) | 36 | 備前(岡山) | 51 |
堀尾忠氏 | 遠江(静岡) | 12 | 出雲(島根) | 24 |
加藤清正 | 肥後(熊本) | 25 | 肥後(熊本) | 52 |
黒田長政 | 豊前(大分) | 18 | 筑前(福岡) | 52 |
細川忠興 | 丹後(京都) | 18 | 豊前(福岡) | 40 |
浅野幸長 | 甲府(山梨) | 23 | 紀伊(和歌山) | 38 |
田中吉政 | 三河(愛知) | 10 | 筑後(福岡) | 32 |
山内一豊 | 遠江(静岡) | 7 | 土佐(高知) | 22 |
中村忠一 | 駿河(静岡) | 15 | 伯耆(鳥取) | 18 |
京極高次 | 近江(滋賀) | 6 | 若狭(京都) | 9 |
京極高知 | 信濃(長野) | 10 | 丹後(京都) | 12 |
西国大名とは、関ヶ原の戦いの功績で大幅に加増され、力を増した豊臣恩顧の大名だと考えられる。
東軍についた豊臣恩顧の大名としては、表の2番目の福島正則や3番目の加藤清正が有名だろう。その後の彼らへの処遇は、教科書に「1619(元和5)年、福島正則を武家諸法度違反で改易」、「1632(寛永9)年、秀忠の死後、3代将軍徳川家光も肥後の外様大名加藤氏を処分」(p.171頁)と書かれており、やはりヒントは、教科書に示されている。
Bについて
求められているのは、
(1) 大船禁止令の理解のしかたの変化を書く
(2) 幕末と、出された当初との違いを書く
(3) 90字で書く
まずは、資料の内容を確認していく。
ア 問Aと資料(1)より、当初の目的は、豊臣方に味方する恐れのある西国大名の軍事力を削減するためであり、外洋航海ができる船を禁止したわけではなかった。
イ 資料(3)より、大船禁止令を改定する理由は、ペリー来航にともない、海防のために外洋航海が可能な洋式軍艦の建造を可能にするためであった。
ウ 資料(2)と(4)より、幕末には、大船禁止令は徳川家光が対外政策のために武家諸法度に加えたものだと考えている。
エ 資料(4)より、幕末の役人は、外洋航海ができる船の建造が認められれば、大名が外国と通交したり貿易したりするのではないかと危惧している。
これと関係する教科書の記述とを照らしあわせる。『詳説 日本史B』P.178~179に
活発な海外貿易も幕藩体制が固まるにつれて、日本人の海外渡航や貿易に制限が加えられるようになった。その理由の第1は、キリスト教の禁教政策にある。理由の第2は、幕府が貿易の利益を独占するためで、貿易に関係している西国の大名が富強になることを恐れて、貿易を幕府の統制下におこうとした。(略)1635年には、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止し、九州各地に寄港していた中国船を長崎に限った。(略)こうしていわゆる鎖国の状態となり、以後、日本は200年余りのあいだ、オランダ商館・中国の民間商船や朝鮮国・琉球王国・アイヌ民族以外との交渉を閉ざすことになった。
また、徳川家光によって1635年に出された武家諸法度寛永令で、五百石以上の大船の建造禁止が定められたことも、教科書P.171に掲載されている史料にある。
以上をまとめると
ア 当初は、外洋航海の禁止を目的としていたわけではなかった
イ 幕末には、外洋航海ができる大船の建造を認めたら、大名が外国と通交したり貿易したりするのではないかと危惧している。
ウ そのように考える理由は、徳川家光の鎖国の形成時期に、貿易に関係している西国の大名が富強になることを恐れて、貿易を幕府の統制下におこうとして、武家諸法度に大船禁止令を加えたことが背景にある。
以上を90字でまとめる。
なお、家光の武家諸法度寛永令に記された「一五百石以上之船停止之」という条文は、4代家綱の寛文令で「一五百石以上之船停止之、但荷船制外之事(但し商船は除く)」とされ、制限がかかるのは軍船(関船といった)のみとなり、商船の制限は撤廃された(でなければ樽廻船や菱垣廻船が「千石船」を運航できたはずがない)。
これから考えても、大船建造禁止はあくまで軍船を意図していたことがわかる。
<野澤の解答例>
A幕府の体制が未確立の中、関ヶ原の戦いで領地が加増した豊臣恩顧の西国大名の軍事力を削減し、大坂城の秀頼を孤立させるため。(60字)
B当初は外洋航海禁止が目的ではなかったが、鎖国の形成時期に武家諸法度に加えられたことから、幕末には、大名が外国へ渡航し、貿易することで富強となることを防ぐための施策だと理解された。(90字)
<参考>
河合塾
A家康と対立する豊臣秀頼が大坂城にあって勢威を保持している状況の下、西国大名が豊臣方に加担した際の水軍力を排除するため。
B当初は大名の水軍力排除が目的として理解されたが、幕末には家光以来の海禁策下、外洋航海可能な大船建造を禁じ、大名が対外交易を行い富裕化するのを防ぐことが目的であると理解された。
駿台(サテライト)
A開幕当初、豊臣氏は幕藩体制確立の障害と なっていたので、大船禁止令を発して豊臣氏と関係の深い西国大名の武力削減を図った。
B徳川家光は、禁教や貿易独占のために海外渡航を制限した。ペリ ー来航に際して安政の改革を行った阿部正弘は、軍艦建造よる国防防充を図り大船禁止令を廃し、諸藩にも軍艦建造を奨励した。
失礼だとは思うけど、駿台のBは、求められていること(大船禁止令の理解のしかたの変化を書く)を外していませんか?
2016.3.20