エピソード 『家庭教育が育んだ日本人の微笑ー明治日本と小泉八雲ー』

 ろくろ首」「雪女」「耳なし芳一」・・・、仮にストーリーは知らなくても、この言葉を知らない人はいないと思う。小泉八雲、本名パトリック=ラフカディオ=ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)の『怪談』に出てくる話である。

 ぼくの自宅の近くに、日露戦争にゆかりのロシア人墓地があることは別に記したとおりである(エピソード『日露戦争とロシア人墓地』 参照)が、実はこのロシア人墓地から徒歩3分のところに、小泉八雲の『怪談』に関係する場所がある。「孝子桜」と紹介された小さな桜の木である。

重病の親が「一目桜の花を見て死にたい」という。子どもが桜に祈ったところ、大寒にもかかわらず花が咲いた。この奇跡により老父は長寿を保ったといわれる。

 その桜自体は戦災で焼けてしまったが、その実から育てたという木が今も残されているのである。

 しかし「孝子桜」の話を読んで、「どこが怪談やねん!ちっとも怖くない、怪談どころか美談じゃないか。」と思った人、一度きちんと『怪談』を読んでもらいたい。小泉八雲の『怪談』は決してオカルト小説ではない。日本に伝わる伝承を集めた情緒溢れる本である。事実、「雪女」にしても「耳なし芳一」にしても寝物語として子どもに語れるではないか。いくらメジャーな話だとしても西洋のドラキュラや狼男、フランケンシュタインの話を寝物語として子どもに語れるだろうか。(そもそもスリラーというものは、「情緒的恐怖感」に訴えるべきものだというのがぼくの持論である。アメリカのB級ホラーみたいに、やたらに気持ちの悪いものがでてきたり、生首や内臓を飛ばしたりするのは、本当は怖いのではなく「生理的嫌悪感」に訴えているのであって、怪談(スリラー)とは呼べない。)
 
 『怪談』に登場する「物の怪」(もののけ)たちは、日本の八百万の神々と同様に、英語で言えばgodsとかsuper naturalと表現されるべきもので、決してmonsterではない。八雲はこの民話・説話を愛した。そこにはギリシア人を母に持つアイルランド人である彼の生い立ちも関係している。アイルランドも精霊の住む国であり、民話の宝庫である。なお、英語でGodというのはキリスト教やイスラム教のような一神教の神である。

 本題からそれるが、ギリシア神話を読んだことがある人は多いと思う。が、もし時間があれば北欧神話(エッダ)や他の民話なども是非読んでほしい。有名な「宇宙樹(世界樹)」の他にも「ビフロストの橋」(虹の架け橋のことです)など、素敵な話がたくさんある。

 閑話休題

 ラフカディオ=ハーンは、1890年(明治23年)4月に雑誌の通信員として来日した。同年7月、アメリカで知り合った服部一三(明治日本の教育確立に尽力した人物)の斡旋で、島根県松江尋常中学校と松江師範学校の英語教師に任じられ、8月に松江に到着した。翌年、 士族の娘であった小泉節子(セツ)と結婚する。

 その小泉八雲の著書の中に、『日本の面影』(「明治日本の面影」)がある。その一節を紹介する。

 八雲が日本海沿岸の温泉が湧く村の宿に泊まったとき、縁台の上に明日流されるのを待っている立派な精霊舟を見つけた。この精霊舟はその宿で働いている貧しい未亡人とその息子が、彼女(未亡人)の夫と弟のためにつくったものであった。そしてその未亡人が女中として、八雲の夕食の給仕をしに部屋へ来るのであった。
 彼は、旅の「連れの者」を介して、その経緯を彼女から聞き出した。(ここでいう「連れの者」とは、同行していた八雲の妻、小泉節子である。なぜ「妻」(wife)と記さずに、「連れの者」と記したかは、彼が自分の作品をイギリスで発表する予定であったことによる。当時、白人と有色人種との結婚はタブーであり、事実、八雲はアメリカで記者をしていた時代、法的な禁止に反して黒人女性と結婚して職を失った経験がある。そのため「妻」と書かずに「連れの者」「通訳」と記したのである。)

 彼女は年上の夫と所帯をもち、とても幸せに暮らしていた。18歳だった弟も一緒に住んでいた。その夜、夫と弟は他の漁師とともに海へ出ていた。しかし夜明け前、急に台風がやってきた。他の舟はみんな無事に帰ってきたが、より沖に出ていた夫と弟はもう岸まで少しというところで大波に呑まれてしまった。海へ投げ出された二人を波が持ち上げる時は、二人の顔がはっきりと見えた。最初に弟が沈み、夫は長い間がんばって泳いでいた。そして・・・

 「・・・(夫は)浜から顔が見て取れるほど、浜の近くまで泳いできたんです。本当に恐怖に満ちた形相で、主人は「助けて!」と叫んでいました。でも誰も手を出せないまま、主人もついに海の中へと消えていってしまいました。主人が沈む前に、私ははっきりとその顔を見たんです。
 その後、かなりの間、夜になると、そのときの主人の顔が忘れられなくて寝ることもできず、ただただ泣いていました。なんとか、その悪夢を見なくてすむようにと、神仏に祈ったものです。もう夢に出てくることはなくなりましたが、こうして話していると、つい思い出してしまってー。そのとき息子はまだほんの子どもでした。」

 この話をとつとつと語り終える頃には、彼女の目頭から涙がこぼれ落ちていた。すると急に、女中は畳に頭をつけて一礼し、袂(たもと)で涙を拭い、お恥ずかしいところをお見せしました、と丁重に詫びて微笑した。あの日本人の礼儀に欠かせない穏やかな微笑みに、私は正直言って、話以上に胸を打たれたのであった。」

 今日でも、日本人の微笑みは内心を隠そうとする気味の悪い、油断のならないものだという外国人がいる。なぜ夫が遭難したときのことを泣きながら話した後で笑うのか、理解できないという。
 しかし八雲はその著書の中で、幾度となく日本人の微笑みを、家庭教育によって義務として養われた素晴らしいものだと書いている。

 相手にとっていちばん気持ちの良い顔は、微笑している顔である。深刻だったり不幸そうに見える顔は相手に心配をかけたり、苦しみをもたらしたりする無礼なことである。だから、たとえ心臓が破れそうになっていても、凛とした笑顔を絶やさないのだ

と。

 松江から熊本、神戸へと移ったハーンは、1896年、東京帝国大学の英文科講師となり、日本に帰化して小泉八雲と名乗った。そして、1903年、東大を退職、後任はこれまたぼくが住む松山にゆかりのある夏目漱石であった。翌年、享年54歳で小泉八雲は世を去った。

 漱石に東大講師の職を追われる形となった八雲の晩年は、不遇だったという話を聞いたことがある。また、学生思いで講義のおもしろかった八雲の退職に際して、東京帝国大学では学生による八雲留任運動が起こったという。

 八雲の日本人についての考察を、「西洋人の勝手なエキセントリズムの賜物」だと冷笑するのは簡単である。実際、八雲にそういった面があったことは否定できないとぼくも思う。それでもあえて今、小泉八雲が描いた明治の日本の人々の姿を見直してみたい。日本人が見失おうとしているものを、思い出させてくれるような気がする。

 
ラフカディオ=ハーン(小泉八雲)は、教科書の本文中に出てくるようなお雇い外国人とは違う。しかし彼らに勝るとも劣らず、もっと日本人が知ってよい外国人であるとぼくは思う。

(もっとも八雲は帰化したから、結果的には日本人だけどね。)

2007.3.18

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