エピソード 『日露戦争とロシア人墓地』

  半年ほど前のことである。ロシア人の先生オーリガさんという女性の先生)に1日ホームステイしていただく機会を得た。受け入れの打診があった時、「相手も先生だし、英語で話せば大丈夫だろう。」と気楽に考えたが、これが日本人の(ぼくの?)悪いところである。「英語は世界共通語ではない。」と分かっているつもりでも、いざとなるとやはり「英語で何とかなる」と思ってしまう。
 「英語は通じない」ことは、歓迎会が始まると同時によ〜く分かった。それでも融通のきかないぼくは、英語が話せるロシア人の先生を通訳にして、オーリガ先生と話すという有り様だった。
 結果として、ホームステイで最もオーリガ先生と仲良くなったのは、「お絵かきの好きな」小学校1年生のぼくの娘であり、次がジェスチャーと実物を示す妻だった。情けない限りである。

 閑話休題

 ぼくの住む松山の街は、秋山兄弟の生誕の地であるとともに、日露戦争の際にロシア兵の捕虜収容地となった。そのうち、この地で没したロシア兵の墓地が、ぼくの自宅から1.5qほど離れた場所にあり、「ロシア人墓地」と呼ばれている。

 日露戦争当時、欧米諸国に文明国と認められたい日本は、捕虜の扱いにかなり気を遣っていた。そのため松山に収容されたロシア人捕虜たちは、かなり自由な生活を許されていた。
 道後温泉の料亭で宴席を開く者、自転車レースに興じる者、中には女学校(現愛媛県立松山南高校)を見学して、写真を撮った者もいた。
 このように優遇されているという話はロシアにも伝わっていたらしく、投降するとき「マツヤマ」と叫んだロシア兵もいたという。

  ただし、これは松山に収容されたロシア兵に将校階級の者が多く含まれていたことにも起因している。彼らは貴族身分であり、経済的に豊かであった。
 貴族であろうが戦争捕虜がどうして金を持っているのかという疑問が生じるが、彼らは海外(たとえばフランス)の銀行に口座を持っていて、そこから送金させたらしい。そんな彼らが、明日をも知れない捕虜生活の不安を紛らわすかのように散財していった面もあった。

 そのため、商店にはロシア語の看板がかかり、中国地方からも捕虜を目当てとした商人が訪れたりした。松山は「ロシア人捕虜景気」とでもいうものに湧いたが、一方で豊かではない下士官階級の者たちの思いはいかばかりであったろう。(事実、下士官ばかりを収容した街は大変だったらしい。)

 今、ロシア人墓地は地元の中学生や市民の善意(ボランティア)で、いつもきれいに保たれている。

       

          ロシア人墓地                                     ロシア語の看板がかけられた商店

(2005.2.13)

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