エピソード 「利休の死」

   秀吉によって千利休が切腹させられたことは周知のとおりである。これについてもいろんな人がいろんなことを言っている。そしてこれから述べることも、ぼくの勝手な思いであり、根拠はないし、受験にも出ない

 利休が秀吉もくぐる大徳寺山門に、自らの像を置いたことが公の理由とされてはいるが、やはりこれは表向きのことだと思う。
 あくまで「堺の豪商として、堺の利益の代弁者である利休」と、朝鮮侵略を巡って博多を重視するようになった秀吉との間で、政治的な問題があったことは事実であろう。

 それは認めた上で、ぼくが関心をもっているのは、有名な「朝顔」の話である。

 利休の屋敷の朝顔が素晴らしいという話を秀吉は聞いた。秀吉は言う。「おまえの家の朝顔を見せて欲しい。」利休は「では、明日朝に」と答えた。
 翌朝、秀吉が利休の屋敷に行くと、話題の朝顔の花が一本もない。「どうしたことだ」と戸惑う秀吉は、利休に茶室に案内される。茶室に入って顔を上げた秀吉の目に飛び込んできたのは、
一輪挿しの朝顔であった。
 利休は、その日の朝、最も美しい朝顔一輪だけを摘み取り、後は全て切っていたのである。
 早朝の澄みきった空気と光と静寂のなかで、一輪挿しの朝顔の何という美しさ。秀吉は「さすが利休」と褒めたたえ、利休の名声は上がった。

というものである。この話は利休と「侘び茶の精神」を讃えたり、秀吉と利休の良好な時代を語るのに用いられることが多い。

 しかし秀吉は本当に利休の「美」を理解し、称賛していたのか。少なくともこの「朝顔」の事件に関しては、ぼくはNoだと思う。

 秀吉は、これが利休の挑戦だということは、瞬時に理解できたであろう。北野大茶会でも用いられた「黄金の茶室」などを使って喜ぶような秀吉に対し、「おまえにこの美しさが分かるか」という、利休の強烈な問いかけであることは分かった。だからこそ「さすが利休」と、咄嗟に言うことができた。
 しかし食いつなぐことで精一杯のような貧しい出であり、そのトラウマを振り払うかのよう
に贅を尽くし、享楽的な満足感を求める秀吉には、この精神的に研ぎ澄まされた、まさに切れるような荘厳な美は理解できなかったとぼくは思う。

 しかし秀吉は、「『自分には分からない』ということが分かる」ほど賢かった。
 こういうとまるで「無知の知」のようだが、これは秀吉と利休双方にとって不幸であった。

 この時秀吉は、朝顔が見事だと聞き、子どもが咲き誇る朝顔の生け垣を見て喜ぶような、純粋な気持ちで利休の家に行ったのではなかったか。

 やがて・・・、秀吉は逆に利休に挑むこととなる。「おまえは、そこまで主張する美のために死ねるのか」と。

 もし利休が秀吉の前にひれ伏して許しを請うていたら、果たして秀吉はそれでも利休を殺したであろうか。それは分からない。

 しかし、利休は切腹した。侘び茶は利休の死をもって、美としての永遠の地位を獲得したと言える。

2004.3.6

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