東大チャート 1997年度 『東京大学 第1問の設問B』

ー 吉備真備が長期にわたって政治生命を維持できた理由 ー 
 

解答例と解説

<野澤の解答例>

B唐に留学して儒教、歴史、兵法など最新知識を身に付け、緊張する国際情勢にも詳しい朝廷にとって貴重な人材であるとともに、孝謙、後の称徳天皇に皇太子時代から個人的信任を得ていたため。(90字)


<解説>
 チャートのままである。一つ迷ったのが、答案として「孝謙=称徳天皇」と書いてよいものか否かである。国語の答案ではないので可だと思う。ただ小論文の指導をしていても、論述中に「=」などを使うのは、ちょっとぼく個人の美意識に反するので、「後の」という言葉を用いた。

 特に解説することもないのだが、問題文中にある「帰国後は大宰府の次官となり国際的緊張下に筑前国の怡土(いと)城を造った。」という部分について補足しておく。

 山川の『詳説 日本史』のP.38に、「渤海は、唐・新羅との対抗関係から727年に日本に使節を派遣して国交を求め、日本も新羅との対抗関係から、渤海と友好的に通交した。」という記述がある。

 この時代は、唐、新羅、渤海、日本間の友好・敵対関係が複雑で、それぞれがくっついたり離れたりしている。
 日本が唐の前で新羅と席次を争った話は有名であろうが、渤海は唐の命を受けた新羅の攻撃を受け、これを撃退したり、新羅は新羅で破れはしたがその功績を唐に評価され、唐との関係改善に成功したりしている。
 また、渤海は唐で安史の乱が起こるとこれに乗じて、日本と渤海とで新羅を挟撃しよう画策した。怡土城築城はこのような緊張した国際情勢下で行われたわけである。
 この新羅挟撃作戦は藤原仲麻呂の乱で立ち消えになったが、1度目はともかく、2度目の遣唐使は本人の本意ではなかったにせよ、結果として国際情勢に精通することになった吉備真備の存在は、朝廷にとって貴重なものとなったといえる。


2011.5.29

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