2014年度 『東京大学 その1』

古代の国政審議のあり方
  

【1】次の(1)~(4)の文章を読んで、下記の設問に答えなさい。

(1) ヤマト政権では、大王が、臣姓・連姓の豪族の中から最も有力なものを大臣・大連に任命し、国政の重要事項の審議には、有力氏族の氏上も大夫(マエツキミ)として加わった。律令制の国政の運営には、こうした伝統を引き継いだ部分もあった。
(2) 810年、嵯峨天皇は、藤原薬子の変(平城太上天皇の変)に際して太政官組織との連携を重視し、天皇の命令をすみやかに伝えるために、蔵人頭を設けた。蔵人頭や蔵人は、天皇と太政官とをつなぐ重要な役割を果たすことになった。
(3) 太政大臣藤原基経は、884年、問題のある素行を繰り返す陽成天皇を退位させ、年長で温和な人柄の光孝天皇を擁立した。基経の処置は、多くの貴族層の支持を得ていたと考えられる。
(4) 10世紀後半以降の摂関期には、摂政・関白が大きな権限を持っていたが、位階の授与や任官の儀式は、天皇・摂関のもとで公卿も参加して行われた。また、任地に赴いた受領は、任期終了後に受領功過定という公卿会議による審査を受けた。

設問
A 律令制では、国政はどのように審議されたのか。その構成員に注目して、2行以内で述べなさい。
B (4)の時期に、国政の審議はどのように行われていたか。太政官や公卿の関与のあり方に注目して、4行以内で述べなさい。

<考え方>
Aについて。
求められているのは、
(1) 律令制のもとでの国政の審議のあり方について書く
(2) 構成員に注目して書く
(3) 60字で書く

ことである。言うまでもないことだが、与えられた資料が時系列になっていることから、変化にふれなければならない。
 さらに今回は、設問Bが「太政官や公卿の関与のあり方に注目して」とあり、この設問Aは「構成員に注目して」とあることを見落としてはならない。
 強調すべき点は、
国政審議に参加する構成員である。
 
 解こうとして最初に考えるのが、求められている
「律令制」とはいつからいつまでかの判断であろう。
 律令制とは、「能力で選ばれた官僚が、法に基づいて中央集権政治を行う制度」であり、
律令国家建設が進められた7世紀後半から、朝廷が格式という法を出していた10世紀頃まである。

 与えられている資料から、
(1)には、「
律令制の国政運営は、ヤマト政権下での国政運営の伝統を引き継いだ部分もあった。」とある。
 では、この伝統とは何か。それが、「大王が、
臣姓・連姓の豪族の中から最も有力なものを大臣・大連に任命し、国政の重要事項の審議には、有力氏族の氏上も大夫として加わった。」である。
 つまり、「大王(天皇)のもと、
畿内の最有力豪族や有力氏族の氏上(代表一人)がTop層(=公卿にあたる者)に選ばれ、審議に参加できた」ことである。

 ただ、ここでいかにも東大らしい言葉遣いをしていることに気付いてほしい。
 「律令制の国政の運営には、こうした伝統を引き継いだ部分
あった。」→この「」である。「受け継いだ部分あった。」ではない。つまり、そればかりではないと言っているのである。
 では、その例外的なものは何か。それが、資料(2)である。

(2)は、薬子の変と蔵人頭設置についての、ほとんど教科書の記述通りの文である。ではなぜ嵯峨天皇は政治的危機の中で藤原冬嗣を蔵人頭に抜擢したのか。
信頼できる有能な役人(官僚)であったからに他ならない。有力な氏族から一人ずつが政治の中枢に参画できるという伝統は、すでに奈良時代の藤原四子によって破られていたが、この時も平城太上天皇側には、藤原仲成がいた(参議であった)ことを考えれば、有能な官僚的政治家は氏族ごとに一人ずつという枠を超えて登用されていることがわかる。
 また、「
嵯峨天皇は、藤原薬子の変(平城太上天皇の変)に際して太政官組織との連携を重視し、天皇の命令をすみやかに伝えるために、蔵人頭を設けた。」とあり、太政官との連携が天皇主導であったことがわかる。

 このことは(4)に「摂関期には、
摂政・関白が大きな権限を持っていたが、位階の授与や任官の儀式は、天皇・摂関のもとで公卿も参加して行われた。」とあるように、会議には天皇が臨席している。
 これに、先述の教科書の記述(政治の運営は、摂関政治のもとでも天皇が太政官を通じて、中央・地方の役人を指揮し、全国を統一的に支配する形をとった)を加えると、摂関政治の時代にあっても、天皇はただ臨席しているだけではなく、最終決定(決裁)をくだしたことになっていることがわかる。

 以上をまとめると、


ア 国政を審議するのは太政官の公卿
イ 重要審議は天皇が臨席・決裁(裁可)
ウ 公卿の構成員は、当初は有力氏族の氏上(氏族ごとに一人ずつ)であったが、後にはその枠を超えて有能な官僚的政治家が任命されるようになった。

 
となる。この内容を60字におさめればよい。

 ところで、設問Aを見た時、2006年度の第1問を思い浮かべた人が多かったのではないか。
 ぼく自身、2006年度の第1問の答案
奈良時代は、律令制のもと個人の能力に基づく官僚制が導入されたが、実際には近畿地方の有力豪族が特権を持つ貴族として政治を独占し、地方豪族は排除されていた。当初官僚制は重視されず、有力氏族が特定の職能を世襲で担うという従来の形態が存続していた.。しかし貴族の中でも儒教的学識を備えた有能な官僚的政治家が現れ、慣例を破って一族で台頭し、氏族制は衰退していくことになった。
を60字でまとめればよいのではないかと思った。実際、これに天皇が決裁したを加われば、できあがりである。
 やはり、過去問は解いておかなければなりませんね。


Bについて。
求められているのは、
(1) 摂関政治の時期の国政の審議のあり方について書く
(2) 太政官や公卿の関与のあり方に注目して書く
(3) 120字で書く

 摂関政治の時代であっても、政治の運営は摂関の独裁ではなく、天皇臨席のもとで公卿が参加して行っており、律令制にもとづいたものであった。これは、山川の『詳説日本史』の本文中に「政治の運営は、摂関政治のもとでも天皇が太政官を通じて、中央・地方の役人を指揮し、全国を統一的に支配する形をとった」(P.62)と記されている通りである。

 今回、強調すべき点は、太政官や公卿の関与である。
 教科書(山川『詳説日本史』)には、摂関期の政治について、先述の記述の注として次のようにある。

 
主たる政務は太政官での公卿の会議によって審議され、審議の結果は天皇(もしくは摂政)の決裁をへて太政官符・宣旨などの文書で命令・伝達された。外交や財政にかかわる重要な問題については、内裏の近衛の陣でおこなわれる陣定で、公卿各自の意見が求められた。(P.62 脚注2)

 これでもういいんじゃないかと思いたくなるが、与えられた資料を無視して教科書の記述だけでは書けないのが東大の問題である。
 この記述をベースに、資料の内容を加えていきたい。 


 まず、直接問われている(4)を見てみよう。
 10世紀後半以降の摂関期には、摂政・関白が大きな権限を持っていたが、位階の授与や任官の儀式は、天皇・摂関のもとで公卿も参加して行われた。また、任地に赴いた受領は、任期終了後に受領功過定という公卿会議による審査を受けた。

 摂関が官吏の任免権に関わっていたこと。そのため中・下級貴族が摂関家やそれと結ぶ上級貴族に隷属するようになったことは、教科書(山川『詳説日本史』)のP.62にも書かれており、また東大の2010年の第1問でも問われている。しかし、官吏の任免・審査には公卿も関わっていたことがわかる。

 さらに、東大は「天皇・摂関のもとで」という表現をしている。細かいようだが、「天皇臨席のもと、摂関や公卿が参加して」とは書いていない。
 つまり、
天皇と摂関がセットなのである。

 
ニクイな東大!

 と思った。


 ここから、摂関期において、
摂政・関白は強い権限を持ってはいたが、天皇と摂関は協力して太政官と連携して国政を主導しており、重要事項は太政官での公卿会議で審議され、合議の上、天皇の決裁を受けたこと。また、官吏の任免や審査などにも公卿は関わっていたことが導ける。
 


 さて、ここで(3)である
。一見すると国政審議には関係ないようにも見えるが、東大の資料に過不足はない。必ず意味がある。

 ポイントとなるのは、「
摂関は、問題のある天皇を退位させ、適任者に代えるなど、ある意味で天皇をコントロール(制御)する役割を担っていたこと。このことは太政官を構成する公卿も認める役割であった」ことである。
 受験生は誰でも知っている知識であるが、藤原良房は幼少の清和天皇の摂政になった。問題行動が多かったとされる陽成天皇が廃位されて光孝天皇になった時、政治が混乱したという話も聞かない。
 ここから、実際に政治を行っていたのは摂関であって、天皇は摂関家の権威付けのお飾りで、誰でも良かったのだと言われることもある。
 これは言い過ぎとしても、資料(2)のように、天皇が協力なリーダーシップを発揮した時代とは異なり、
天皇個人の年齢や能力に関係なく、官僚組織である太政官が機能する体制ができあがっていたと言える。

 以上をまとめると次のようになる。

ア 天皇と摂関が協力して、太政官と連携して国政を主導していた
イ 摂関には天皇を制御する役割があり、それを公卿も認めていた
ウ 天皇個人の年齢や能力に関係なく、官僚組織である太政官が機能する体制が整っていた
エ 摂関は強い権限を持ってはいたが、重要事項は太政官での公卿会議で審議され、合議の上、天皇の決裁を受けた
オ 官吏の任免や審査などにも公卿は関わっていた

 この内容を120字でまとめればよい。


<野澤の解答例>
 
A太政官で公卿が審議し、天皇が決裁した。当初、公卿には有力氏族の氏上が選ばれたが、後には有能な官僚的政治家が任じられた。
(60字)
B天皇と摂関が協力して、太政官と連携して国政を主導する一方で、天皇個人の能力に関係なく、太政官が機能する体制が整っていた。摂関は強い権限を持っていたが、重要事項や官吏の任免・審査などは公卿会議で審議され、公卿の合議の上、天皇の決裁を受けた。
(120字)



<参考>
代々木ゼミナール
A国政は有力氏族から任命された左・右大臣、大・中納言、参議ら太政官の公卿による審議で合意形成がはかられ、天皇が裁可した。
B重要問題については内裏の近衛の陣で行われる陣定という太政官の公卿による会議にかけられた。そこでは参加者の意見が求められ、天皇の決裁の参考にされたが、天皇が幼少の時には摂政が決裁し、成人の時はその後見人として関白が決裁に大きな影響を与えた。

河合塾
Aヤマト政権時代に大夫などとして国政に参与してきた有力豪族の氏上が、太政官の公卿に任命されて会議を行い、国政を審議した。
B国政の重要事項は、太政官の諸官司が前提となる文書の審議や前例などを澗べて報告し、陣定と呼ばれる公卿会議で審議した。その意見を摂政または関白が内覧し、天皇との信頼関係のもとに裁定したうえで、蔵人頭を通じて天皇に奏上し、最終的に決定した。

駿台予備校
A律令制では、天皇の下、太政官で公卿が国攻を審議した。当初は有力氏族の代表、平安期は官僚化した藤原氏などが公卿となった。
B平安初期、天皇権力は強化されたが、太政官との連係は重視された。やがて、貴族層の支持を背景に藤原北家が台頭し、摂関期には、主要政務は太政官で公卿が審議し、地方行政など重要事項は内裏での陣定で、公卿の意見に基づき、天皇が裁可するようになった。


Aに関しては、野澤の答案と駿台のものが一緒といってよい。代々木と河合塾は、「当初は有力氏族の代表、のち官僚的政治家へ」という視点が抜けているように、ぼくには思える。
Bは、駿台が資料(2)で示された平安初期との比較を入れている。野澤としては、問われているのが資料(4)の摂関政治の時代であったので触れなかったが、もし150字以内なら、加筆しただろう。他を削ってでも記載するべきか迷うところである。
 河合塾が書いている「摂関は天皇との信頼関係のもと、一体となって政治を主導した」ことについては、このコーナーで公約にしている「山川の『詳説日本史』の記述と与えられた資料のみに基づいて答案を作成する」という点から書かなかったが、その通りだと思う。
 受験生は問われているのは、あくまで「
国政の審議と太政官や公卿のあり方」であり、摂関について書くのではないことに注意しなければならない。


2014.9.15

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