『近代編後期4 昭和初期の政治』

【3】 昭和初期の政治 (P.125〜126)

 教科書ではテーマ史的にまとめてありますが、ここは内閣ごとに整理しました。最初に閣僚の絶対的キーワードをおさえる。

憲政会立憲民政党外相幣原喜重郎立憲政友会蔵相高橋是清

1 第1次加藤高明内閣
 護憲三派の連立第1次加藤高明内閣→「憲政の常道」がスタート。
 加藤高明内閣は、丸暗記ネタ一発です。『1925年に制定された治安維持法は、同年の普通選挙法日ソ基本条約とによって、今後進出してくるであろう共産主義の運動を取り締まるため。』
 なお、衆議院議員選挙法の改正に関しては、有権者の全人口比率が大切。『最初は1つでニコニコ増えた。』→「2050(%)」
 護憲三派の連立は、政友会が陸軍の大物田中義一を総裁に迎えたことによって崩れ、憲政会単独内閣(第2次加藤高明内閣)となる。
 
2 第1次若槻礼次郎内閣
 加藤の死によって、第1次若槻礼次郎内閣(憲政会)が成立。キーワードは金融恐慌1927)。
 用語を正確に。「関東大震災の結果、決済不能に成った手形=震災手形」の処理を巡って、大蔵大臣片岡直温が失言(片岡直温は教科書には無くても、私大では結構出る!)。ここから銀行の取付け騒ぎが起こり、銀行の休業が続出した。この、銀行がバタバタと休業するような事態金融恐慌と言う。
 この流れの中で第一次世界大戦中に急成長した鈴木商店が倒産。鈴木商店のメインバンクであったため、多額の不良債権を抱えることになった台湾銀行を、内閣は緊急勅令で救済しようとしたが、伊東巳代治を議長とする枢密院が拒否。理由は「幣原外交に不満だったため、内閣を倒そうとしたから」である。もくろみ通り、事態収拾の目処を失った内閣は総辞職した。
 
3 田中義一内閣
 ついで成立した立憲政友会田中義一内閣は、モラトリアム3週間によって金融恐慌を収拾した。キーワードは『裏白紙幣』。モラトリアムとは銀行が、預金者に預金を返さなくてよい期間。「支払猶予」令である。実は関東大震災の時にも出されているが、受験では「金融恐慌ネタ」と考えて可。なお、金融恐慌によって「三井三菱住友安田第一」の五大銀行の優位が確立した。
 田中義一内閣の外交は、「欧米には協調的、中国には強硬姿勢」である。具体的には、「対欧米(協調的)=ジュネーブ軍縮会議参加(不成功)→パリ不戦条約(1928)」「対中国(強硬姿勢)=山東出兵張作霖爆殺事件」となる。山東出兵ネタは私大で出たらしつこく空欄補充。「(←正確には字が違う)介石のいわゆる北伐に対抗して回出兵。中国関係の軍人や外交官などによる東方会議で積極策を確認。第2次山東出兵軍と北伐軍の軍事衝突を済南事件という。」
 内政は、「最初の普通選挙の結果、無産政党員が8名当選(1928)」にショックを受けて「治安維持法を改訂して最高刑を死刑に(1928)」して、「共産党を弾圧(三・一五事件、四・一六事件)」した。無産政党については、杉山元治郎(賀川豊彦と並ぶ日本農民組合の創立者)らが1926年に労働農民党を結成した。(なお、労働農民党は同年のうちに路線対立から右派(社会民衆党/安部磯雄)と中間派(日本労農党/三輪寿壮)が脱退した。左派が残った労働農民党は、大山郁夫を委員長としたが、1928年に田中義一内閣により解散させられた。)
 そして大物、張作霖爆殺事件1928)である。キーワードは「奉天郊外」「関東軍河本大作」「政府は満州某重大事件として発表」「昭和天皇の不信を買い田中義一内閣総辞職(天皇に「お前の言うことは信用できない」とはっきり言われた)」である。
 田中内閣総辞職により、政権は憲政会が政友本党を取り込んでリニューアルした立憲民政党に回る。首相には大親友であった若槻礼次郎に「お前しかいない」と言われて、『ライオン宰相』こと浜口雄幸が就任した。

4 浜口雄幸内閣
 浜口内閣の絶対的キーワードは『金解禁1930)→昭和恐慌』と『ロンドン海軍軍縮条約1930)→統帥権干犯問題』である。
 外相は民政党内閣なので当然幣原喜重郎、そして「金解禁を行った蔵相井上準之助」は頻出する。
 スローガンが『産業合理化』『緊縮財政』であることを考えれば、カルテルの結成を助長する重要産業統制法と結びつけることができる。
 昭和恐慌ネタは要注意なので、私大の空欄補充形式で確認してみる。「第一次世界大戦中の1917年、日本も欧米諸国同様、金輸出を禁止した。戦後復興した欧米諸国が金本位制に復する(金輸出を解禁する)中、戦後恐慌を始めとする相次ぐ恐慌に見舞われた日本は、金の輸出を禁止したままであり、そのため円に国際的信用がなかった。そこで財界からの強い要望で、為替相場の安定輸出の促進のために、蔵相井上準之助の下、旧平価で金輸出を解禁した。しかし、世界経済は前年、アメリカでの株価の大暴落を機に世界恐慌に見舞われており、欧米諸国は金輸出の禁止に向かっている状況であった。この「嵐に向かって雨戸を開け放つ」と言われた世界の動向に逆行する措置のため、日本から大量の正貨(金)が流出した。この恐慌は『アメリカ向け輸出の中心であった生糸』生産農家を直撃。さらに豊作による農作物価格の暴落が追い打ちをかけたが、翌1931年は一転して東北・北海道が大凶作に見舞われ、農業恐慌(農村恐慌)と呼ばれる危機的な状況となった。一方、都市部でも中小企業の倒産が続出し、失業者が帰農したため、農村の困窮に拍車がかかり、『欠食児童』『女子の身売り』という世相となった。この都市部と農村の両方を襲った空前の経済危機を昭和恐慌という。」(窓「近代の経済発展と恐慌」へ

 ロンドン海軍軍縮条約(1930)の全権は若槻礼次郎補助艦の保有比率。『ワシントン海軍軍縮条約は主力艦』であり、正誤問題に注意。軍部、右翼のみならず野党であった政友会までが政権欲しさに統帥権の干犯』と非難。まさに『政党政治の自殺行為』であった。このため浜口首相は東京駅で撃たれる。この時、浜口首相がつぶやいた「男子の本懐だな」(男として本望だ)という言葉は、城山三郎の『男子の本懐』という傑作のタイトルにもなっている。幸い一命は取り留めたが、この『統帥権干犯問題』を巡って議会は紛糾する。政友会の鳩山一郎は、浜口自身の答弁を強硬に主張し、民政党を追い込んでいく。これに対し浜口は、医師の制止を振り切って自ら登壇。それが原因で傷が悪化し、翌年、『ライオン宰相』は世を去った。


2008.11.3追記
2010.3.5改訂

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