『近代編後期3 大正時代の社会』


 ここは、ノートではP.122の最後に<大戦景気>、P.124に<大正デモクラシー>としてまとめている部分です。

(P.122)

 大戦景気 
 第一次世界大戦→大戦景気が基本。日本は世界第3位の海運国となり、船成金が大勢生まれた。図表などによく登場する、100円札を燃やして「どうだ明るくなっただろう」と言ってる絵を見て、「船成金→大戦景気」と分からなくてはならない。
 満鉄が鞍山製鉄所を作った他、中国へ在華紡と総称される日系資本の紡績工場が進出した。水力発電の「猪苗代・東京間の送電成功」もこのころ(1914)である。またドイツからの輸入が途絶したため、化学工業が発達した。日本は一気に債務国(借金生活)から債権国(金貸し生活)となり、工業生産額が農業生産額を追い越すに至ったが、戦争が終結しヨーロッパ諸国が復興すると戦後恐慌(1920)を迎えることとなる。 (コラム『正誤問題で迷ったら』へ)


(P.124)

 大正デモクラシー
(1)大正デモクラシーの理論的支柱である「吉野作造民本主義」と「美濃部達吉天皇機関説は、中学校の歴史の教科書にも載っている。しかし、大学入試でも最重要である。

@民本主義について。
 あの「最も長い入試問題の単語」と呼ばれる「憲政の本義を・・・」という論文(これをフルネームで書かせる入試問題が本当にあるからなぁ!)が、「中央公論」(1916)に載ったことは知っておいて欲しい。かつて「戦前からある雑誌」を選ばせる問題があったが、当然「中央公論」は戦前からあることが分かる。
 さて、メジャーな正誤問題。「吉野作造は国民主権を唱え・・・」という文章は誤りである。彼は主権の所在は問うていない。だから「天皇主権を否定せず」とか「天皇主権を認めたまま」などの文章が正解となる。
 要は、天皇主権だとか国民主権だとかは問題とせず、「政党政治(政党内閣)の実現と普通選挙の実施」による民主政治を論じた。
A天皇機関説とは、天皇も帝国議会や内閣、大審院と同じように国家の機関(システム)であるという考え方。立法機関が議会、行政機関が内閣、司法機関が裁判所であるように、統治機関として天皇があり、定員は1名と考えればよい。議会や内閣が憲法の制約を受けるように、天皇であっても国家の機関である以上、憲法の制約を受けることになる。
 なお、天皇機関説
は、上杉慎吉らの天皇主権説(天皇個人が主権者であり、憲法の制約にとらわれない)と対立したことも知っておかなければならない。

2 労働運動
 友愛会鈴木文治)は、明治時代の「労働組合期成会(高野房太郎)」と混同しないように。友愛会(1912)は労使協調型だっだが、日本労働総同盟(1921)に改組されるころには、階級闘争型へと変わっていった。また、センターテストでは第1回メーデー(1920)のポスターから、時代を判断させるものがあった。

3 農民運動
 このころ小作争議が頻発する。日本農民組合は、賀川豊彦杉山元治郎。かつては賀川豊彦との一問一答で可だとしていたが、最近は杉山元治郎(労働農民党の創設者でもある)もよく聞かれる。(「死線を越えて」から賀川豊彦をきく問題も見られるが、難問)

4 女性解放運動
 一点注意が必要。平塚明を中心とする青鞜社の雑誌「青鞜」が、はしりだということは常識だが、青鞜社結成は明治末1911)であって、大正時代ではない。(エピソード「平塚明と雑誌『青鞜』と『若いツバメ』」へ)また、治安警察法第5条の改正に成功した新婦人協会(1920)は、政治団体だが、青鞜社はあくまで文芸団体である。尚、女性団体で「社会主義的」という言葉があれば「赤瀾会」である。

5 そのほか
 部落解放運動の「全国水平社」は言うまでもない。1922年にコミンテルンの支部として結成された「日本共産党」は当時、非合法であった。
 最後に、吉野作造がらみの団体2つ。「大学の先生たち知識人の集まり→黎明会」「学生団体→東大新人会」


2015.9.27追記
2008.11.3追記

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