『近代の経済発展と恐慌』

  まずは、兌換紙幣不換紙幣の区別。
 戦前の世界経済の基本は、金本位制でした。金本位制とは、中央銀行が、発行した紙幣と同額の金を常に保管し、金と紙幣との兌換(交換)を保証する制度です。つまり、「紙幣は紙切れですが、これは実は金○○グラムなんですよ。金を持ち歩くと煩雑なので紙で代用しているのであって、中央銀行へ持ってくればいつでも、金○○グラムと交換しますよ。」という制度です。この金の裏打ちがある紙幣を兌換紙幣。ない紙幣を不換紙幣といいます。
 これは「金を買う」のではありません。2002年11月現在で、金1gは1300円前後を変動していますが、金本位制とは、「1円は金○○グラム」と決まっているのです。そして、中央銀行が市場に流す通貨の総量(マネーサプライ)は、保有している金の総量とイコールということになります。つまり、その国が持っている金(これを正貨という)の量だけ、お金を発行できるのです。
 これによって、貿易黒字等で国家財政が潤っている時は、正貨の保有量も多くなるため、マネーサプライは増え、逆に窮乏している時は抑えられる。このことで、バランスをとろうという制度です。
 世界的に金本位制である中で、自国の通貨が金本位制ではない、すなわち兌換紙幣ではないということは、貿易にあたって信用が得られないということになります。そこで、明治政府は金本位制を導入できるように努力したのです。
 話のスタートとして、「金に交換できる紙幣兌換紙幣」、「金に交換できない紙幣不換紙幣」というのを知っておいて下さい。

1871年 新貨条例 円・銭・厘の10進法にして、金本位制を目指すも果たせず。(開港場では銀。国内は不換紙幣)
1872年 国立銀行条例 アメリカのナショナルバンクの制度に習って、有力な商人に兌換紙幣を発行させようとした。しかし兌換を義務づけると渋沢栄一第一国立銀行以下行しか出来ず挫折。兌換義務を免除し、雨後の竹の子状態で153行出来る。
1877年 西南戦争 この戦費をまかなうために国立銀行に大量の不換紙幣を発行させ、インフレとなる。
1880年代前半 大蔵卿松方正義による紙幣整理 日本銀行1882)を唯一の発券銀行とし、国立銀行は普通銀行へ。極端にマネーサプライを減少させる。これを「松方デフレ」という。
 農民は春にはインフレの中、高額で肥料などを購入していながら、秋にはデフレで農産物価格が暴落しているということになる。今なら、収入に応じて納税額が決まるが、当時は「地価の3%」であった。このため地租が払えない中小農民が没落して小作農となり、逆に余裕のあった有力農民は土地を買って寄生地主となった。「松方デフレが寄生地主制を確立させた」と言われる所以である。
1880年代後半 日本銀行は1885年から銀兌換券を発行し、日本は銀本位制を確立。物価は安定した。貿易は輸出超過(黒字)となり、松方デフレで金利が下がると、鉄道紡績を中心に会社設立ブームがおこった。(企業勃興)
○1890年 ブーム(企業勃興)の反動で、株価が暴落。日本最初の恐慌がおこる。
1897年 日清戦争の賠償金をもとに、念願の金本位制確立(貨幣法)
○1890年代後半 日清戦争後、鉄道・紡績などで企業勃興再発。繊維産業を中心に資本主義確立。しかし・・・。
○1900年 紡績(綿糸づくり)のためには、原料となる綿花が必要であり、この大量輸入のため正貨が流出。資本主義恐慌となる。(恐慌とは、不況が深刻化し経済が混乱する状態)
日露戦争(1904〜1905)。日本は戦費を内債と外債(外国からの借金)でまかなっており、この外債の利払いと、紡績の原料綿花の輸入(インドから)で、正貨が流出。朝鮮や満州への綿布の移出や輸出は増加したが、貿易収支は大幅な赤字であり、日本経済は危機的状態となる。
   この状況を救ってくれたのが、第一次世界大戦であった。
○1915〜1918年 大戦景気 日本は世界第3位の海運国となり、船成金が生まれた。貿易収支は黒字(輸出超過)となる。この流れの中、中国に日系資本の紡績工場(在華紡)が出来る。
○1917年 第一次世界大戦が始まると、欧米諸国は金兌換を停止。(金への交換が殺到すると、国内から正貨が流れ出すから。紙幣は所詮紙きれ。みんな金に代えたい。)これを受けて日本も金兌換停止(金輸出禁止)。
○1920年 戦後恐慌 大戦が終わり、欧米諸国がアジア市場に復帰すると、株価暴落。綿糸・生糸相場半値という恐慌となった。ここから、長い恐慌の歴史が始まる。
1923年 震災恐慌 関東大震災で京浜工業地帯が壊滅。大量の手形が決済不能となる。この関東大震災によって決済不能となった手形を震災手形という。日銀からの非常融資でしのいだが、この震災手形の処理がこの後の課題となる。
1927年 金融恐慌 震災手形の処理を巡って蔵相片岡直温が、まだ休業してなかった(というより資金繰りに成功して危機を乗り切りつつあった)「渡辺銀行が休業した」と失言。「予言の自己実現」(←クリックで説明へ)により、渡辺銀行は本当に休業に追い込まれる。ここから、銀行にたいする不安が高まり、預金者が預金の引き出しに殺到する取付け騒ぎがおこり、中小銀行がバタバタと倒産(休業)する金融恐慌となる。
 さらにこの時、第一次世界大戦中の急成長した鈴木商店が倒産。三井や三菱のような自前の銀行を持っていなかった鈴木商店のメインバンクは、台湾銀行であった。一時、三井を凌いだ鈴木商店の倒産は、そのまま大量の不良債権を抱えることとなった台湾銀行倒産の危機となった。
 台湾銀行は台湾経営のためにつくられた政府系銀行であり、メガバンクの危機を救うために、第一次若槻礼次郎内閣は日銀からの非常融資を行う「台湾銀行救済勅令案」を出す。しかし、幣原協調外交に反対の伊東巳代治を議長とする枢密院はこれを拒否。事態収拾の見通しを失って、内閣は総辞職した。
 ついで成立した田中義一内閣は、緊急勅令の形で3週間のモラトリアム(支払猶予令。銀行が3週間預金者に支払いをしなくてもよい)を出し、この間に裏の印刷していない多量の紙幣(裏白紙幣)を発行して、銀行に配りまくり、金融恐慌を収束させた。
 金融恐慌の結果、預金者の預金は「倒れそうにない銀行」すなわち五大銀行(三井・三菱・住友・安田・第一)に集中するようになった。

※このころ・・・。第一次世界大戦後、復興した欧米諸国は金本位制に復していた。しかし、日本は大戦中に肥大した工場の国際競争力がなく、恐慌のたびに日本銀行券(つまり通貨)を増発して一時しのぎをするという政策のためインフレが続き、金本位制に復せないままであった。そのため円に信用がなく、為替相場は不安定であった。
 そこで財界から、金本位制に戻し(金輸出を解禁し)、産業合理化を図って国際競争力をつけようという要望が強まっていた。
1930年 金輸出解禁→昭和恐慌 浜口雄幸内閣は蔵相井上準之助のもと、金輸出解禁を断行。為替相場の安定と経済界の整理を図った。
 井上準之助財政のポイントは、
(1)緊縮財政による物価の引き下げ
(2)産業合理化(重要産業統制法/1931)による企業統合と国際競争力の強化
(3)金輸出解禁による為替相場の安定と経済界の整理
である。
 しかし、前年、アメリカのニューヨーク・ウォール街の株価の暴落から始まった世界恐慌の中での金輸出解禁は、流れに逆行するものであり、正貨が大量に流出することとなった。
 アメリカの不況は、そのままアメリカ向け輸出の中心であった生糸を直撃。生糸生産農家は大打撃を受けた。(生糸は贅沢品だから、不況になったら売れないでしょう。)しかも農作物価格も暴落し、農村は「欠食児童」「女子の身売り」という言葉に代表される危機的状況となった。
 一方、都市部では不況による倒産と産業合理化によって失業者が増大。彼らの帰農が、さらに東北の農村の窮乏に拍車をかけることとなった。
 この、都市部と農村部を同時に襲った未曾有の経済危機を昭和恐慌という。
1931年 金輸出再禁止→管理通貨制度へ 浜口内閣の後成立した犬養毅内閣は、蔵相高橋是清とともに、金輸出再禁止を行い、これより日本は今日に至るまで管理通貨制度となる。
 高橋是清財政のポイントは、
(1)浜口内閣の産業合理化のもと、競争力をつけてきた産業界は、円安を利用して輸出を促進→綿織物輸出世界第1位(イギリスを抜く。これに対しイギリスは「ソーシャル・ダンピング」(不当な低価格)と非難するとともに、ブロック経済圏で対抗。
(2)赤字国債を発行して軍事費を増大させる膨張財政で、内需拡大
である。
 これによって1933年には、欧米諸国に先駆けて、世界恐慌以前の生産水準を回復した。

※このころ・・・。満州事変が勃発し、日米関係は悪化していった。しかし政治的な悪化とは対照的に、紡績や綿織物に必要な綿花や石油などの輸入といった、アメリカへの経済的依存は、強まっていった
 イギリス・フランスという植民地を持つ国が、本国と植民地の間で取引をし、他国を締め出すというブロック経済は、日本やドイツ、イタリアという植民地を持たない国を追い込むことになる。
 日本は市場をアジアに求め、円ブロック圏を構築しようとし、ますますアメリカと対立することとなった。

本編へ戻る
窓・発展編目次へ戻る
トップページへ戻る
テーマ史編目次へ戻る