(P.122〜124)
1 第2次大隈重信内閣(与党は立憲同志会)
第2次大隈重信内閣(与党は立憲同志会)のキーワードは、第一次世界大戦と対華二十一箇条要求。
対華二十一箇条要求は、教科書では「二十一箇条の要求」とあるが、「対華二十一箇条要求」と覚えて欲しい。理由は、ワシントン会議(123頁)の項で分かる。
サラエボ事件から第一次世界大戦が始まり、日本は「日英同盟の情宜(情宜とはよしみ)と国際的地位の向上」のため、参戦する。時の外務大臣は、加藤高明。のちに首相として普通選挙法を実現させる人物。この時、元老であった井上馨が死にかけ寸前ながら、側近に両脇を抱えられて閣議に来て、「これは大正新時代の天佑(天の助け)」だから参戦せよ、と言った話は有名。
対華二十一箇条要求は中国の袁世凱に対して出された。日本は最後通牒を発して、これを認めさせ、中国ではその日を国恥記念日とした。史料も大切。史料編でチェックして。特に「山東省のドイツ権益の移譲」と「漢冶萍公司の合弁」は絶対。ちなみにこの内閣の与党となる立憲同志会は、大正政変の時、桂太郎がつくった政党。政府は国民に人気の高い大隈を首相にし、大隈人気で、立憲同志会は総選挙で政友会に圧勝。懸案の2師団増設要求は議会を通過することになった。
2 寺内正毅内閣
次の寺内正毅内閣の時、中国での特殊権益をめぐってアメリカと石井・ランシング協定(1917)が結ばれる。一方、内閣は袁世凱の後を継いだ段祺瑞に対して西原借款を行うが、完全な失敗に終わる。
そして、やっぱり寺内内閣と言えば、シベリア出兵→米騒動(1918)でしょう。この米騒動鎮圧のために軍隊を出動させ、これがもとで総辞職。ここに平民宰相と呼ばれた原敬内閣が成立することとなる。
3 原敬内閣 (P.123)
原敬が立憲政友会の第3代総裁であり、最初の本格的政党内閣を組織したことは、中学校の教科書にも載っている。原敬内閣の内政面は2つ。すなわち大学令(1918)と「普通選挙には冷淡(と言うより反対)で、直接国税を3円に引き下げたのみ(平民宰相なら普通選挙が実現すると期待した国民を失望させた)」
「明治文化1」の項でも述べたが、この大学令によって私立も大学として認可された。それ以前は、同志社や慶応も専門学校扱いです。(早稲田=東京専門学校)
外交は第一次世界大戦の講和会議として、パリ講和会議→ヴェルサイユ条約(人はいくいくヴェルサイユ→1919年)全権=西園寺公望。内容は「山東省の・・・」と「赤道以北の・・・」ともにドイツ権益を分捕った。このような流れに対する反日闘争が、「朝鮮=三.一運動(万歳事件)」「中国=五.四運動」ごっちゃにしないで。
これにはアメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」の考え方が影響している。ウィルソンは国際連盟を提唱し、日本は常任理事国となったが、米・ソは不参加であった。なお、ここで構築されたヨーロッパの国際秩序をヴェルサイユ体制という。
シベリアをめぐる「ニコライエフスク事件(尼港事件)」はやや難しい。
原敬は、大戦景気にのって「鉄道の拡充や高等学校の増設」などの積極政策をかかげて支持を広げ、新しく導入された小選挙区制のもと総選挙に圧勝したが、政党政治の腐敗に憤る青年に東京駅で暗殺された。(ノートには中岡艮一の名前が載っているが、現在入試には出ない。なぜなら当時未成年だったから)
4 高橋是清内閣
原敬暗殺後、全閣僚留任という形で高橋是清が組閣する。後に、「二.二六事件で暗殺される人物」であり、「高橋財政」で有名な人だが、リーダーシップに欠けて内閣は短命に終わり、内政的には受験で出るものはない。しかし、外交面は要注意である。
ワシントン会議で「四カ国条約」「九カ国条約」「海軍軍縮条約」の3つの条約が結ばれた。
ワシントン会議を提唱したのはアメリカ大統領ハーディングだが、アメリカの教科書には出ず、日本の歴史の教科書に登場するという変わり者である。(なぜなら「アメリカ史上最も無能な大統領」と言われているから。)日本の全権は加藤友三郎が分かれば取りあえず良い。
「四カ国条約→日英同盟」「九カ国条約→石井・ランシング協定と対華二十一箇条要求の一部」が廃棄された。これは最重要!
上で「二十一箇条の要求」を「対華二十一箇条要求」と覚えて欲しいと言ったのは、ここで効いてくる。「四カ国=4文字(日英同盟)」「九カ国=9文字(石井・ランシング協定・対華二十一箇条要求)」の廃棄だから。
海軍軍縮条約は後の「ロンドン海軍軍縮条約」と区別するためにワシントン海軍軍縮条約と覚えた方がいいと僕は思う。この条約で主力艦の保有比率が「ベエ、ニブイ(米英日仏伊)=5:5:3:1.67:1.67」に決定された。このようなアジア・太平洋の国際秩序はワシントン体制と呼ばれ、国際協調外交を、推進した外務大臣(幣原喜重郎)の名をとって幣原外交という。
5 加藤友三郎内閣
高橋内閣が短命に終わった後、ワシントン条約の全権であった海軍の加藤友三郎が、政友会を与党として組閣。普通選挙の導入を検討するが急死。第2次山本権兵衛内閣の組閣中に、関東大震災(1923.9.1)がおこる。
関東大震災中の社会の「亀戸事件」「甘粕事件→大杉栄・伊藤野枝」は一問一答(エピソード「甘粕正彦という謎」へ)。在日中国人・朝鮮人が虐殺されたことは知っておかなければならない。受験のレベルで言うと、第二次世界大戦時に朝鮮人を強制連行する以前から、日本に朝鮮の人は渡って来ていたのである。これは日本が朝鮮を植民地にする過程の中で、土地を取り上げられた人々が渡って来たことなどによる。
6 第2次山本権兵衛内閣
普通選挙導入の準備を進めたが、第2次山本権兵衛内閣は虎の門事件(皇太子暗殺未遂事件)で退陣。「第1次山本内閣→シーメンス事件で退陣」と間違わないように。
7 清浦奎吾内閣
最重要の一つ「清浦奎吾内閣→第二次護憲運動→護憲三派の連立内閣(第一次加藤高明内閣)」がおこる。
入試の絶対的ポイントは
(1)「第一次護憲運動(1913)=第2次西園寺公望内閣→第3次桂太郎内閣の時で、立憲政友会(尾崎行雄)・立憲国民党(犬養毅)→第1次山本権兵衛内閣」
(2)「第二次護憲運動(1924)=第2次山本権兵衛内閣→清浦奎吾内閣の時で、護憲三派=立憲政友会(高橋是清)・憲政会(加藤高明)・革新倶楽部(犬養毅)→第1次加藤高明内閣」
である。必ず正確に覚えること。両方に共通しているのは、立憲政友会と犬養毅。なぜか山本権兵衛も絡んでくる。