エピソード 『甘粕正彦という謎』

 数年前、新聞に一つの記事が載った。一人の青年が、甘粕正彦の足跡をたどる旅をしているというものだった。青年の名も甘粕という。きっかけは彼が受験生の時の体験だった。日本史の先生が甘粕事件について、甘粕正彦をボロカスに非難したのだ。始めは我慢していたが、あまりの言葉に立ち上がって抗議しようとして、横に座っていた友人に止められたという。
 「確かにしたことは許されないかもしれないが、人には全て、その時々の事情があったのだ。それを無視して、結果だけを見て非難することは出来ないのではないか。」
 その思いから、自分の祖先である甘粕正彦について知りたいと思うようになったとのことだった。

 この記事は、僕に大きな衝撃を与えた。確かに僕自身、甘粕正彦という人物には良い印象を持っていなかった。はっきり言って「関東大震災甘粕事件大杉栄・伊藤野枝と幼い子どもを殺害」という図式で、極悪人のように思っていた。ただ、僕自身が授業でコメントする時には必ず「僕はこう思う」「僕の考えでは・・・」と断ってきたつもりだ。しかし、人物の好き嫌いは言葉の端々に表れるし、生徒たちの中には、それが固定観念になる者もいる。そう思うと反省させられた。と同時に甘粕正彦という人物にも興味が湧いた。

 山川の教科書には、甘粕事件や甘粕正彦という名称は出ていない。大杉栄殺害は「憲兵によって」とある。一方、桐原の教科書には、甘粕正彦・甘粕事件と黒ゴチではっきりとでている。
 人物欄では「陸軍軍人。憲兵隊長の時、関東大震災の混乱に乗じて社会運動家の大杉栄と内縁の妻伊藤野枝と甥の少年を扼殺し、軍法会議で懲役10年の判決を受けた。のち満州事変と関わり満州国要人となる。」(山川出版社『日本史B用語集』)とある。
 一般的には、神経質で残虐な軍人で、「昼の満州は関東軍が支配する。夜の満州は甘粕正彦が支配する」と言われたように、暗黒街のボスとのイメージであろう。映画や小説『帝都物語』でも極めて危険な人物として描かれている。

 ところが、彼の近くにいた人たちからは、全く別の人物像が伝わってくる。例えば満州国総務庁に勤務していた武藤富男氏は、「甘粕は私利、私欲を思わず、そのうえ生命に対する執着もなかった。彼とつきあった人は、甘粕の様な生き方が出来たら・・と羨望の気持ちさえ持った。また、そこに魅せられた人が多かった。」と書いている。

 最近では、いわゆる甘粕事件は、甘粕正彦の独断ではなく、陸軍の陰謀の責任を甘粕が被ったとの説が、急速に勢いづいている。中には黒幕は上原勇作参謀総長(覚えてる?第2次西園寺公望内閣の時、陸軍2師団増設要求が認められないことで、陸相を単独辞任して、軍部大臣現役武官制を利用して、内閣を倒した『陸軍のストライキ』の中心人物。この時は参謀総長だった)だとする説もある。
 確かに彼は当初「個人の考えで3人全てを殺害した」と言い張っていたが、軍事法廷で弁護人に「部下をかばっているのだろう。裁判は天皇の名に於いて行われるのに、偽りを言うのか」と詰め寄られ、泣きながら「子どもは殺していない。菰包みになったのを見て、初めてそれを知った」と証言を変えている。(しかし、それでは誰が殺したのだと、部下が厳しく追求され始め、結局甘粕の犯行という話に戻ってしまった)
 判決は懲役10年だったが、3年で出所し、そのままフランスへ留学している。費用は陸軍が負担し、画家の藤田嗣治らと会っている。
 その後満州に渡り、満州国成立と同時に民政部警務司長となる。1939年、満映(満州映画協会。植民地政策のための国策会社)の理事長に就任した。

 当時、新京放送局に勤務していた森繁久弥氏は甘粕正彦をこう評している。「満州という新しい国に、われわれ若い者と一緒に情熱を傾け、一緒に夢を見てくれた。ビルを建てようの、金をもうけようのというケチな夢じゃない。一つの国を立派に育て上げようという、大きな夢に酔った人だった。
 また、李香蘭こと山口淑子が、中国人の振りをし続けるのに耐えられなくなり、理事長室で甘粕に「満映を辞めたい。」と告げたところ、「気持ちは分かる。」と言って怒りもせずに、その場で契約書を破り捨てたという話も残っている。

 甘粕正彦は終戦の1945年8月20日、青酸カリで自決した。次の文は、彼が自殺する前に、中国人の従業員に対して語った言葉である。

これからは皆さんがこの会社の代表となって働かなければなりません。しっかり頑張ってください。いろいろお世話になりました。これからこの撮影所が中国共産党のものになるにしろ国民党のものになるにしろ、ここで働いていた中国人が中心になるべきであり、そのためにも機材をしっかり確保することが必要です。

 いわゆる甘粕事件については、殺された大杉栄伊藤野枝が、右翼の巨頭頭山満や内務大臣だった後藤新平等の知遇を得て、資金援助を受けていたことや、殺される直前には5人の子供を抱え、転向を考えていた事などが分かっており、そんな彼らがなぜ殺されなければならなかったのかも疑問である。

 甘粕自身は、フランスでも満州でも、この事件にだけは決して触れなかったから、真相は分からない。
 しかし、残された大杉・伊藤の親族や子どもたちは、大変な苦労をした。殺された側には遺族がいる。これはいつの時代にも国を越えて共通していることである。

本編へ戻る
エピソード目次へ戻る
トップページへ戻る