6年ほど前(1997年)の話である。
『開運! なんでも鑑定団』という番組を見ていたら、桂太郎の愛妾だった『お鯉さん』(のち東京下目黒の羅漢寺を再興した妙照尼)が、桂からもらって大切にしていた人形というのが依頼品として出た。
桂太郎とお鯉さんの話は有名だから今更どうと言うこともなかったのだが、興味をひかれたのは、番組が紹介した桂とお鯉さんの出会いの話である。ぼくの記憶が確かならば、次のような内容であった。(何せ6年前に一度見たきりだから、間違っていたらすみません。番組のホームページを見ても「本人評価額50万円」と「鑑定評価額80万円」ぐらいしか出ていませんでした。)
照近江の『お鯉さん』は、東京・新橋の花柳界で名を馳せたスーパースターであった。彼女を座敷に呼べるのは、それなりの人物でなければならなかった。そんな彼女のなじみの客の一人が山県有朋である。
ある日、彼女は山県にこう言われた。
「会って欲しい男がいるのだが。」
そうして引き合わされた相手が桂太郎であった。桂の猛烈なアタックが始まる。
「遊びの相手なら嫌です。」
という彼女に対して、桂は精一杯の誠意を見せる。その贈物の中の一つがこの人形であった。さて鑑定やいかに!
桂園時代を現出した桂太郎と西園寺公望には、それぞれバックに元老山県有朋と伊藤博文が付いていたことは、受験知識としては常識の範囲内である。そして授業では「蚊野菜」(→かつら+やま県・さい園寺+い藤)という組み合わせを確認して終わってしまう。
しかし、この番組が取り上げたエピソードが本当なら、山県有朋と桂太郎の関係というのは、ただの政治的な付き合いだけではなく、父親が気に入った女性を息子に紹介するのに近い、非常に人間的なものがあったことになる。(妾を紹介することの是非は、時代的な風潮を考慮したい。)
西園寺公望と伊藤博文の関係も、おそらくそうしたものがあったのではないか。
上流貴族出身の西園寺に対し、伊藤は知っての通り長州の下級武士の出である。4歳で西園寺家の養子となった公望(実家は徳大寺家。明治天皇の側近の徳大寺実則は実兄)は、18歳で戊辰戦争に直面する。これを薩長・幕府間の私闘と見なして朝廷の保身を図るべきだとする意見を厳しく批判し、岩倉具視に激賞される。彼のフランス留学は、私淑していた大村益次郎の推薦であった。
そのフランス留学中、友人とカフェで酒を飲んでいた時、その友人が誤ってグラスを割ってしまった。飛んできて大声で高飛車にわめきたて、弁償しろと騒ぐフランス人給仕に対し、西園寺は
「そうか、弁償すればいいのだな。」
と言って、近くにあった店のグラスを、持っていたステッキで片っ端から叩き割り、金を払って引き上げたような人物である。
帰国後は中江兆民らと共に東洋自由新聞を発刊して社主となったが、勅命により退社した。その後、多くの人の紹介で様々な人物に会したが、「誰に逢っても一向喰い足らない気がして、少しも感心しなかった」という面白からざる状態であった。
そんな彼が「これは」と感じた相手が伊藤博文であった。その憲法調査に随行することになった西園寺は、伊藤と2人きりで列車に乗ることになる。この『ハンガリー行きの汽車で結ばれた縁』が、終生続くことになった。
結果、伊藤の立憲政友会に参加し、第2代総裁になったのは周知の通りである。
2003.8.13