(P.103〜107)
1 自由民権運動の展開
(1)征韓論争
征韓論争。西郷隆盛や板垣退助らが、征韓派であったことは、その後の動向からわかる。盲点は、木戸孝允は内治派。木戸は1875年の大阪会議で政府に復帰するので、勘違いされがちだが、翌年の台湾出兵に反対して下野したのであって、征韓派ではない。
(2)民撰議院設立建白書
「民撰議院設立建白書」は、板垣ら8名の署名で、三院制の左院へ提出された。ブラックの「日新真事誌」に掲載されたことが、私大では意外にでる。
(3)不平士族の反乱
佐賀の乱(江藤新平)で始まって、西南戦争(西郷隆盛)で終わった。尚、この間の「敬神党の乱」「秋月の乱」「萩の乱」は全て、士族解体のあった1876年におこっている。
(4)民権運動の展開と政府の対応
まず、「民権運動と政府の弾圧3部作」は頻出。
@「『名古屋の愛は斬(ざん)・新(しん)』→1875年=愛国社⇔讒謗律・新聞紙条例」
A「『晴れた!、国会・集合』→1880年=国会期成同盟⇔集会条例」
B「『花は三本で安い』→1887年=三大事件建白運動⇔保安条例」
2つめの目玉は、「開拓使官有物払下げ事件→明治十四年の政変」。ただし明治十四年の政変は、開拓使長官黒田清隆が政商五代友厚に、官有物を不当に安価で払い下げようとして、問題化した事件から、大隈重信を参議罷免する一方で、国会開設の勅諭を出すまでの一連の動きとする説と、大隈罷免から勅諭までとする説とがある。
なお、大阪会議(大久保利通が木戸孝允と板垣退助と会談して、両者が政府復帰)と連動する「立憲政体樹立の詔(元老院・大審院・地方官会議)」と「国会開設の勅諭」を間違えないように。
民党の2つ、自由党=板垣退助と立憲改進党=大隈重信は、中学校の教科書。立憲帝政党=福地源一郎は猫でもできそうな問題。政党の特徴を1つだけ。自由党員であった中江兆民が「東洋のルソー」と呼ばれたことを考えれば、自由党=フランス式と分かる。
ここからは、上記の二つよりはやや頻度が下がる。
西南戦争(1877)の最中にだされた「立志社建白」って何だ?簡単に言うと、「自由民権運動って何?」と聞かれて、何と答えますか?これを明確にしたものです。
つまり、「自由民権運動というのは、国会開設・地租軽減・条約改正をめざすものなのですよ。」と明示した。政府には却下されたが、目標が明確で分かりやすくなったため、それなら賛成だという豪農や商工業者が運動に加わるようになり、民権運動が本格化するようになった。
翌、1878年の三新法(地方三新法)は、言葉を丸暗記するよりも、ねらいを理解したい。郡区町村編制法で、行政単位を実情に応じた形に戻し、府県会規則で正式に公選制の地方会議(民会)を認め、地方税規則で府県財政の確立を図った。つまり、中央での民権運動は抑えながらも、地方においてはある程度民意が反映されるようにしたのである。
2 松方財政
参議兼大蔵卿であった大隈重信が、明治十四年の政変で罷免された後、大蔵卿に就任した大蔵卿松方正義による、極端なデフレ政策は松方デフレと呼ばれる。
このころ、日本経済は、西南戦争の軍費をまかなうために、大量に発行された不換紙幣によって、極度のインフレとなっていた。松方デフレとは、この状況を立て直すために、増税と軍事費以外の歳出緊縮を徹底して、歳入の余剰で不換紙幣を処分したのである。この方式で正貨の備蓄を進め、1882年に、日本銀行を設立し、それまでの国立銀行は普通銀行となった。
この政策により、1885年には、日本銀行券と貿易に使用している銀貨の差がほとんどなくなり、銀兌換券を発行できるようになった。翌1886年には、国内で流通する紙幣も銀兌換できるようになり、日本は銀本位制となった。
受験生にとって、松方財政関連として一番出題頻度が高いものは、寄生地主制の形成であろう。
このデフレ政策による増税と米価など物価の下落に対して地租は定額金納であったため、農民の負担は著しく重くなり、自作農が土地を手放して小作農に転落した。その一方で地主は所有地の一部を耕作するほかは、小作人に貸し付けて高率の現物小作料をとりたて、貸金の方に土地を集中させていき、寄生地主への歩みを進めていった。なお、松方デフレ後も小作地率は上昇し続け、1890年代には大地主が耕作から離れて小作料収入のみに依存する寄生地主制が形成されていった。
(※寄生地主制の形成時期については、教科書よって違いがある。山川、実教は上記のように「松方デフレ下で地主による土地の集中=寄生地主化への歩み→1890年代に形成」である。対して桐原、東京書籍は「松方デフレで寄生地主制の形成」となっている。ぼく自身以前は、「松方デフレで寄生地主制の形成」と教えていたが、今は、山川・実教の立場をとっているのでこのような解説となった。)
また、大隈重信が大蔵卿であった時に制定された工場払下げ概則は、投資額の回収を主眼としていたのでほとんど希望者がいなかった。松方は、この方針も転換し、軍需工場と鉄道を除く官営事業を払い下げていった。入試のポイントとしては、官営工場の払下げで、軍需産業は払い下げられていない。
兵庫造船所→川崎は、富岡製糸場→三井などがよく出題されるが、彼らは政商は、これらをもとに財閥へと成長していくことになる。
3 民権運動の激化・停滞と再建
(1)自由党左派の激化事件
基本は3つ。
@最初=福島事件→県令三島通庸vs県会議長河野広中
A松方デフレの影響→秩父事件=困民党→軍隊出動
B大阪事件→大井憲太郎・景山英子→朝鮮の内政改革企画。なお、大阪事件(1885)の背景には、前年に朝鮮でおこった甲申事変があることを知っておきたい。
(2)運動の再建
「大同団結」運動と三大事件建白運動の区別がつかない人へ。自由党・立憲改進党ともに、板垣の外遊(エピソード「板垣退助」へ)や大隈の脱党などで揺れる中、国会開設の時期が近づくと、星亨らが中心となって、「民党同士でいがみ合うのはやめよう。」という「大同団結」を主張します。これが「大同団結」運動。
こんな中、ノルマントン号事件(イギリス)を機に、井上馨の条約改正案(条約改正の項参照)反対から「地租軽減」「言論・集会の自由」「外交失策挽回」をスローガンとする、三大事件建白運動が起こりました。わかった?
なお、星亨とともに大同団結を唱えた、後藤象二郎は、保安条例で追放されていないよ。何と、入閣して人々を驚かせた。
(2010.3.4改訂)
(2015.8.16加筆)