エピソード 「受験用板垣退助」

 まず、受験生が混乱するのは、1873年に征韓論で下野した板垣は、1875年の大阪会議で政府に復帰する。これは分かる。なのに1881年の明治十四年の政変の後、自由党を結成した。

えっ、板垣ってもう一回下野してたの?

 その通りです。大阪会議で、政府に戻ることになった。板垣は「見てみろ、やっぱり政府には俺が必要だというのがわかったやろ。」と鼻高々である。しかし、大久保利通が本当に政府に帰ってきて欲しかったのは木戸孝允であって、板垣は(言葉は悪いけど、言ってみれば)「話のついで」であった。だから政府に戻ったものの、彼の言は重く用いられるところとはならず、結局、またやめることになった。(簡単に言うとね)

 板垣退助びいきの人には、本当に失礼な話だが、お札になった(100円)ほどの人物にしては、「板垣退助の伝記」って余りないと思いませんか?理由は・・・。
 受験関係表から、考えてみてください。次の通りです。

版籍奉還を藩主に勧めた四人(薩摩=大久保利通→島津忠義。長州=木戸孝允→毛利敬親。土佐=板垣退助→山内豊範。肥前=大隈重信→鍋島直大)のうち一人
⑵参議となるも、征韓論争に敗れて下野
1874年、愛国公党(日本最初の政党)結成、「民撰議院設立建白書」に署名・提出⇒土佐で片岡健吉立志社設立
愛国社結成のために大阪に来ておきながら、大阪会議で政府に復帰(板垣一度目の裏切り?)
⑸再び下野
⑹1881年、自由党結成
⑺1882年、遊説中に刺され、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという逸話ができる(これは作り話で「痛いから医者を呼んでくれ」と言ったという説がある)。板垣の国民的人気に気をつかった政府は、大慌てで見舞いを送った。
⑻自由党左派の激化事件で、自由党が揺れる中で、外遊。(三井との関係を非難される。)結果、自由党分裂、解散(板垣二度目の裏切り?)
⑼第一回帝国議会の時、政府によって植木枝盛ら、自由党土佐派40名買収される。(中江兆民が激怒して衆議院議員を辞職)(板垣三度目の裏切り?)
第2次伊藤博文内閣で、内務大臣となる。自由党は伊藤内閣の与党となり、立憲改進党などの残存民党と対立(板垣四度目の裏切り?もっともこれには星亨と陸奥宗光の関係があるが)
⑾1898年、日本最初の政党内閣である第一次大隈内閣の内相となる(隈板内閣)も、共和演説事件で文相尾崎行雄の後任を巡って対立。
 憲政党を分裂させ、最初の政党内閣を潰す
(板垣五度目の裏切り?)

 以上。

(2003.5.4改定) 

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