発展 『一揆と直訴』

 2003年2月25日付の毎日新聞の『余録』欄に、次のような内容の記述が載った。

 徳川家康は鷹狩りの最中に、代官の非法を訴える農民の直訴にあった。家康は直ちにその代官を呼び出し、農民と対決させた。その結果、農民の主張が正しかったことが分かり、代官は罷免された。
 ここから「幕府は直訴自体を禁止にしていたわけではない。」とし、さらに「訴訟にとっての最大の問題は、その理非である。」(保坂智『百姓一揆とその作法』)と続けている。

 この『余録』は、某刑務所の不祥事(法務大臣への親展であるべき受刑者の情願書を、矯正局が握りつぶしていた)に対する批判として書かれている。

 これを読むと本編(近世編8)の、直訴(越訴)は、「例えば磔茂左衛門も死刑になったが、訴えられた真田信利も改易になった。刺し違えるわけである。」という文章は、誤りのような印象を受ける。確かに幕府は『権現様』である家康の定めた掟(後述)に従って、「直訴自体は禁止していない」とも言える。あくまで明文化して処罰の対象としたのは徒党であった。

 江戸時代が、多くの時代劇が描くような命の軽い殺伐とした時代ではないことは、常に述べている通りである。しかし、どうもぼくには『余録』の筆者が持論を展開するのに、保坂氏の著書『百姓一揆とその作法』(2002.3)の都合のよい部分のみを抜き出したように思えてならない。
 保坂氏自身、「訴訟にとっての最大の問題は、その理非である」とは言うものの、敗訴すれば死罪となることが多く、訴えは命懸けであったことは認めている。

 他方、次の点などは従来から指摘されており、少し詳しい受験参考書(例:文英堂『受験日本史』)にも記されている。

○家康は1603年の開幕直後、『諸国郷村掟』を出して領主・代官の非分(違法行為)による逃散と、直訴ただし年貢率の件は除く)を容認した。これは全面的な改廃を受けることなく存続した。ここに百姓は、一揆を組織する正当な法的根拠を得ているとの見方もある。
○しかし、一揆禁令は、1750年の「強訴・徒党・逃散の禁止」から整備され、1769年には、「一揆鎮圧のための近隣領主の出兵要請、及び鉄砲の使用」が認められた。
○さらに1770年には頭取(一揆のリーダー)の密告が、高札を持って奨励された。
○「佐倉惣五郎」などの義民伝説の中には、後世の創作であるものがあり、権力者側に利用される場合もあった。

 また、「一揆の作法」に関しては、戦国時代から百姓と領主との間で成文化されている場合もある。例えば、百姓側は、警告なしにいきなり逃散しない。その代わり領主は年貢のかたとして、女房や娘を人質に取らない、というものである。(授業でも述べた通り)
 室町時代には、逃散は農民側の正当な権利として認識されており、百姓が逃散した時、妻子を抑留することは、貞永式目(42条)でも禁じられていた。(逃散などの語句については、「室町時代編4」参照)

 『百姓一揆とその作法』で、ぼくが初めて知って興味深かったのは、

○山川の『詳説日本史』には「17世紀の初めは、・・・武装蜂起や逃散など、まだ中世の一揆のなごりがみられた。」とあるが、実際には中期以降も武装蜂起ではなく逃散が多かった
○「傘連判状」という記述はほとんど見られず、「車連判状」というのが一般的であった。
○一揆で用いられる旗は、木綿や紙で作られるのが一般的で、ムシロ旗はほとんどなかった。旗は村ごとに作られ、集団行動の統制をとるために使われた。(つまり、修学旅行などの添乗員の旗みたいなものであった。)
○命懸けで訴訟に出る者に対しては、村が後のことを保証した。例えば、入牢した場合は、田畑の耕作。追放になり田畑・屋敷が売却された場合は、村が買い戻し、仕送りをする。さらに死罪となった場合は、遺族に巨額の見舞金を出すなど。
死罪となった場合は、義民として顕彰し、神として祀り、供米をすると村中が誓約する場合もあった。(これは笑ってしまった。)

などである。ただ、受験生の基本的知識としては、本編で述べた通り代表越訴型一揆(17世紀)惣百姓一揆(18世紀)世直し一揆(19世紀)』という認識で構わないと思う。

 日本史研究は進歩しており、従来の歴史認識を大きく改めなければならない点は、今後も出てくるであろう。しかし、書物や歴史事実のうち、自分に都合のよい部分のみを用いて真理として語ることは、厳に戒めなければならない。と同時に、我々はそれを見抜く力も、養わなければならない。

(2003.2.26)

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