『近世編9 鎖国の崩壊過程』

【4】 鎖国の崩壊過程  (P.90)

 ここはなかなかの自信作。教科書は、あっちへ行き、こっちへ行きしていますが、1つにまとめてみました。

 田沼意次が蝦夷地の経営に乗り出すきっかけは、工藤平助赤蝦夷風説考。これは林子平海国兵談や『三国通覧図説』(78頁参照。なお、ここでいう『三国』とは蝦夷地・琉球・朝鮮のことである)との正誤問題もある。この時派遣されたのが、最上徳内。蝦夷地の探検は順番がポイント。最近の間(最上徳内→近藤重蔵→間宮林蔵)です。
 松平定信が林子平を処罰した数カ月後、ラクスマンが根室に来航する。根室の場所は地図でチェック。ロシア使節はらくれん(四国に住んでないとわからない?)(ラクスマン→ザノフ→プゥチャーチ)正誤問題は、根室(ラクスマン)と長崎レザノフプゥチャーチン)。ラクスマンが受け取った長崎回航許可証(信牌)を持ち、国書を携えてやってきた正式な使節団であったレザノフを、幕府が冷淡に扱ったことから、日露関係が緊張する。
 ロシアは蝦夷地で略奪などを行う。これに対し、幕府は文化の撫恤令を出して薪水の給与を命じる一方で、国防強化のため蝦夷地を直轄(東蝦夷地→西蝦夷地の順。松前奉行支配下)にしていく。このような中でゴローウニン事件が起こる。

 ロシアと関係した日本人は、「ラクスマン大黒屋光太夫」「ゴローウニン事件高田屋嘉兵衛

 ゴローウニン事件後、ロシアとの緊張状態が緩和されたとして、蝦夷地は再び松前藩領にもどっている。 

(ちなみにゴローウニン事件は、交換と言われてるけど、実際は高田屋嘉兵衛の尽力で、解決した。函館に高田屋嘉兵衛記念館がある。僕と嫁さんが、ひと月遅れの新婚旅行みたいなもので、最初に訪れた場所。ついてきてくれた嫁さんも偉いよね。二度と行かん!)

 事件名と法令等の組み合わせは重要。
モリソン号事件(アメリカ)蛮社の獄
アヘン戦争(イギリス)天保の薪水給与令

 異国船打払令(史料)中の「いきりすの船先年長崎において狼藉におよび・・・」の部分にある「長崎で狼藉に及んだイギリス船」とは言うまでもなく、1808年にオランダ船のふりをして長崎に入港して、狼藉の限りを尽くしたイギリス船フェートン号である。ただし、単純にフェートン号事件(イギリス)異国船打払令という訳ではない。異国船打払令発令(1825)は、フェートン号事件(1808)から17年も後である。異国船打払令が出された目的は、そのころ日本の近海にアメリカ・イギリス船が頻繁に出没するようになり、日本人との接触が懸念されたためである(詳しくは、「東大入試で学ぶ日本史」第4期第3講「無二念打払令の本当の目的」を参照してください)。
 なお、フェートン号事件で、引責自害した長崎奉行松平康英は、私大では聞かれるね。

 蛮社の獄で処罰された蘭学者のグループ(尚歯会)の高野長英(『戊戌夢物語』)と渡辺崋山(『慎機論』)という字に注意)は正誤問題もあるので、正確に覚えること。
 
応用編。シーボルトによる日本地図持ち出し(未遂)事件=シーボルト事件で、獄死した高橋景保は、蛮書和解御用の建議者で、高橋至時(寛政暦作成。92頁参照)の息子。

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