「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」(by鳥羽上皇)
「和漢の間比類少なき暗主」(by藤原信西)
これは誰のことを評しての言葉か。鳥羽上皇と藤原信西で、平安末期の人物であることは分かる。さらに、
「日本国第一の大天狗」(by源頼朝)
とくれば、これはもう後白河法皇である。(ただし、近年これは院近臣高階泰経を指したのではないかとする説もあるらしい。)
後白河法皇とくれば「『梁塵秘抄』=今様集」は基本中の基本であるが、『平治物語』には「今様狂い」と書かれ、本人自身「十余歳の時より今に至る迄、今様を好みて怠る事なし。」と述べ、「自分より歌の上手な者はいたが、自分よりよく歌を知っている者はいなかった。」というほどであった。母親である待賢門院が死んだ時ぐらいは歌舞音曲を控えるべきだが、どうしても我慢できずに歌っている。歌いすぎで3度も喉をつぶし、痛みで湯水も飲めないほどになっても懲りなかった。
まさに歌う専制君主といったところである。
しかし実際には暗愚どころか、かなりシャープな人間であることは、常に生じる中央での派閥対立を巧みに泳ぎ切り、あるいは利用して自分の権力を保持し続けたことからもうかがえる。
天皇在位2年で二条天皇に譲位して院政を始めたころ、すでに大きな派閥対立があった。「信西vs藤原信頼」、「平清盛vs源義朝」、更に鳥羽上皇が本来望んだのは二条天皇の親政であり、後白河は中継ぎに過ぎず「治天の君」の資格はないと考える天皇派勢力も加わり、実に三つ巴の対立であった。
この対立が平治の乱へと発展する。結果は藤原信頼側が負けて、源義朝とその一族は殺された。これ以降、平家は大いに発展する。後白河は、平清盛の武力を背景に天皇親政の勢力を排除しながら、院政を続けようとする。
しかし英明な君主の誉れ高い二条天皇側は、上皇の側近を追放することで反撃。一時院政は停止に追い込まれるが、二条天皇が急死すると院政を再開、さらに二条天皇の子である六条天皇を廃位に追い込み、高倉天皇(皇后が平徳子(建礼門院)、子が安徳天皇)を即位させた。
その後も、平氏と源氏、源義仲と頼朝、平氏滅亡後は義経と頼朝と、ライバルを競わせては失脚させ、朝廷の安定を図る手腕は、マキャベリズムの権化ともいえる。
一方で66年の生涯のうちで熊野へ詣でること実に34回、後に「蟻の熊野詣で」と称されるようなブームの先駆けとなった。2004年に熊野古道が世界遺産に登録される礎を築いた大功労者と言える。この熊野詣での際にも、当然のことながら今様演奏会を行っている。中でも、12回目の行幸(後白河43歳)の時は、夜通し歌って明け方になり、さすがにみんな寝てしまってもまだ飽きたらず、一人で歌っていたら、礼殿で霊異現象にあったりしている。
彼は、身分の上下を問わず、今様を歌う者を召し出して芸を学んだ。さらに上流公家、宮廷女房から遊女、傀儡子(くぐつ=人形芝居、軽業、音楽などを生業とする芸人)に至るまで、身分・性別をこえて仲間を集め、御所にて100日、300日、1000日といったロング・ランの今様コンサートをたびたび行った。しかも見物につめかけた京の民を追い払うのを禁じ、御所の庭に入れて公開した。
これらの行為については当時から、君主のすることではないとして批判的な見方が多かった。しかし、近年この後白河の今様に対する姿勢は、単に彼の嗜好によるものばかりではなく、動乱の時代に王権を維持するための極めて高度な政治的意味があったとする意見が相次いで出されている。
例えば、棚橋光男氏はその著書『後白河法皇』(1995年)の中で次のように述べている。
後白河にとって、内裏・大内裏は所詮”王冠”以上のものではなかった。それが証拠にかれは居心地の悪い内裏をさっさと出てしまっている。かれは信西よりは遥かに深く、<中世>の中で生きていた。帝王
後白河は、王権と文化(芸能)と漂泊の社会集団と、この三つを紡ぎ合わせる網目を発見していた。その網目こそ、迫り来る王権の危機、武士と在地諸集団の怒涛のごとき反乱の中で、王権を間一髪のところで防禦し、それどころかその危機を養分として、中央突破、すなわち王権の中世的再生をはかるための、ほとんど奇跡的とも言うべき生命線だったのだ。
荘園・公領制=経済システムの心臓部を握る交通・情報ネットワークのサブセンター、そしてそれを担う社会集団=零細な手工業者、交通業者、陰陽師・呪術者・遊女・舞人・白拍子・傀儡子集団の掌握、かれらとの太いパイプの施設こそ、帝王 後白河の政治課題でなければならなかった。
なんかすごい名君のようにも思えてきてしまった。でもやっぱり「マキャベリスト」のイメージから抜け出せない・・・。そんな彼のちょっと素敵なエピソードがある。
後白河が今様の師と仰いだのは、名手と評判の高かった乙前という老遊女であった。出会ったときに乙前はすでに年齢がいっていたので、男女の関係があったとは思えない。社会的身分は帝王と遊女ではあったが、芸の上では逆転した師弟関係であった。後白河は彼女を心から敬愛した。
その乙前が84歳で死の床に伏した時のことである。(出典「梁塵秘抄口伝集巻第十」)
乙前八十四と云ひし春、病重くありしかど、いまだつよつよしかりしに合せて、べちの事もなかりしかば、さりとも思ひし程に、程なく大事になりにたる由告げたりしに、近く家を造りておきたりしかば、ちかぢかに忍びていきて見れば、娘にかき起されて向ひてゐたり。弱げにみえしかば、けちゑんの為に法花経一巻読みて聞かせて後、哥やきかむと思ふといひしかば、喜びていそぎうなづく。
像法転じては
薬師の誓ぞたのもしき
一たびみ名をきく人は
萬の病なしとぞいふ
二三反ばかり歌ひて聞かせしを、経よりもめでいりて、これを承るぞ、命もいき候ぬらんと、手をすりてなくなく喜びしありさま、哀に覚えて帰りにき。其後、仁和寺理趣三昧に参りて候し程に、二月十九日に、はやくかくれにし由を聞しかば、惜むべきよはひにはなけれど、年頃見馴しに、哀さ限りなく、よのはかなさ、後れ先だつ此世の有様、今に始めぬ事なれど、思ひつづけられて、多く歌習ひたる師なりしかば、やがて聞しより始めて、あしたには懺法をよみて六根を懺悔し、夕には阿弥陀経をよみて西方の九品往生を祈る事、五十日つとめ祈りき。一年が間、全部の法花経読みおわりて、次の年二月二十九日、あれに習ひたりし今様、むねとある、うたひて後、暁がたに、足柄十首、黒鳥子、伊地古、舊河などうたひて、はてに長歌を歌ひて、後世の為にとぶらひき。
(現代語訳:違っていたらすみません。)
乙前が八十四歳になった春、重い病気になったが、今まで丈夫だったことに合わせて、特に変化もなかった(病状が安定していた)ので、こういうこともあるだろうと思っていたら、まもなく容態が悪くなったと知らせがあった。近くに(彼女の)家を建てて養っていたので、すぐにこっそり見舞いに出かけると、(乙前は)やっと娘に抱き起こされて、向かい合わせに座った。弱っているように見えたので、御仏と御縁を結べるよう、法華経の一巻を読んで聞かせた後、「私の歌を聴きたいですか?」と言ったら、喜んですぐにうなずいた。
(正法の世が終わり)像法の世に変わってからは
薬師如来の誓願が頼りになる
ひとたびその御名を聞いた人は
どんな病も治るという
二、三回ほど繰り返し歌って聞かせたのを、お経より有り難がって、「この御歌を聴かせていただき、命も長らえましょう」と、手をすりあわせて喜んで泣きに泣くありさまを、不憫に思いながら帰ってきた。
その後、仁和寺理趣三昧に参籠しているときに、「二月十九日、急に亡くなられました。」と聞いた。もう惜しむほどの年齢ではないけれど、長年親しくしてきたから、哀しくてたまらない。世のはかなさ、先立つ者と残される者がいるこの世のことわり、それは今に始まったことじゃないが、あれこれ思いがこみ上げてくる。たくさんの歌を教わった先生だから、彼女の死を知らされた時から始めて、朝には懺法を読んで六根にまつわる罪を懺悔し、夕方には阿弥陀経を読んで、西方浄土での九品往生を願い、五十日間仏道に務めて祈りつづけた。一年間で、供養のために全部の法華経を読み終わって、翌年の二月二十九日、彼女に習った今様が山ほどあるのを歌ってから、暁どきに足柄を十首、黒鳥子、伊地古、舊川などを歌い、最後には長歌を歌って、後生をとむらった。
死の床に伏した老遊女を、「治天の君」である法王がお忍びで見舞いに行って、病気が治るという今様を歌う。その姿に「何とありがたいことか。」と泣きじゃくる老遊女。彼女の死後も、帝王は「先生」の死を心から悲しみ、誠実に弔う・・・。
もしかしたら、後白河って本当はいい奴だったのかも知れないね。
熊野那智大社と那智の滝
学生時代一度行ったきりでしかも時間がなくて
滝のそばまでは行けませんでした。
今から思うと残念です。
2007.3.24