学生時代の話である。
夕方、キャンパスの裏門(本当は石橋門というらしい)を出て、坂道を下っている時、同級生の女子学生(「ゆーこさん」ということにしておく)がスッと横に並んできて突然こう言った。
「野澤君、お金持ってる?」
話が見えない。ぼくは、そのとおりに
「どういう意味や?」
と聞いた。ちなみに彼女は東京出身で美人だった。よく言えば明るく活動的、社交的。逆に言えば「清楚」という言葉の対局にいるタイプであった。が、「小悪魔」という言葉をイメージさせる魅力があった。
「今じゃなくてえーから、最近お金あるかってこと。」
「意味がよーわからへんけど、明日、バイト料が入るから多少はあるっちゅうことになるんかな。」
「ほな、お店に来てくれへん!」
「はぁ?」
「ゆーこ、キタの顔やねん。」
東京生まれのくせに、しっかり関西弁の彼女は、大阪キタのスナックでバイトをしているという。
「キタの顔って・・・。(しばらくの間)キタでゆーこさんが働いているような店やったら、俺みたいな学生が行けるとこちゃうやろ。」
「大丈夫やって。来るときは、先教えてね。ゆーこがおるときに来てもらうから。ね、♥」
「・・・指名制なのか?」
「野澤君やったらサービスするから来て、ね、お願い♥」
そういって彼女はパチンと手を合わせて「お願い」ポーズをしてみせた。が、賢明(臆病?)にもぼくは行かなかった。
長い前フリとなった。問題はこのキタという場所である。JR大阪駅周辺、通称梅田付近をさしている。現在の大阪中心地である。これに対して難波、心斎橋、天王寺あたりをミナミという。ぼくの学生時代は、キタのほうが格式が高く、ミナミのほうが安いというイメージであった。おそらく今でもそうだと思う。
御堂筋の交差点をはさんでJR大阪駅の斜め前に曾根崎警察署(ソネ警)がある。そしてこの近くに通称「お初天神」こと露天神社(つゆのてんじんじゃ)がある。(地図「お初天神とキタ」へ。別ウィンドウで開きます。)
菅原道真に由緒を持つとされる露天神社が、「お初天神」とよばれるようになったのは、大坂内本町の醤油屋平野屋の手代徳兵衛と堂島新地天満屋の遊女お初が、元禄16年(1703)4月にこの境内で心中したという事実を、近松門左衛門が人形浄瑠璃の脚本『曽根崎心中』の題材としたことによる。時に近松51歳であった。
事件は、平野屋の主人忠兵衛の甥である徳兵衛は、主人に気に入られ妻の姪と結婚して江戸店をまかされることになった。しかしなじみの遊女お初との恋のために徳兵衛はこれを断り、お初と心中したというものである。
ところで遊女にもランキングがある。幼い頃遊郭に売られてきた娘に対して、店の主人はスパルタ的に教育をする。和歌、能、囲碁・将棋、茶道、華道、香道、絵、書、踊り、三味線、・・・。そうするうちに付いてこれなくなった娘が次々とドロップアウトしていく。一つは知的能力、つまり勉強について行けなくなった者、そしてもう一つは美貌である。ドロップアウトしたレベルが彼女のランクとなる。
そんな中でわずかに最後まで生き残る者がでてくる。すなわち勉強もでき、歌や踊りにもたけ、しかもとびきり美しいという女である。これが「太夫」(たゆう)、つまり花魁(おいらん)の最上位である。太夫は高慢で鼻持ちならぬという話を聞くが、それも当然であろう。すべてを備えた「いい女」なのだから。
しかしお初は太夫どころか格式のある遊郭の女ですらなかった。言うならば早い段階でドロップアウトしたランクである。今でこそキタは大阪の中心であるが、当時は新地、場末であった。当時の中心は今と逆(?)でミナミである。
江戸時代の双六に、商人の出世双六というのがある。丁稚からスタートして、壮年になって主人に暖簾分けしてもらって独立できたら上がりである。徳兵衛は20代半ばにしてまさに「上がろう」としていたのを、場末の遊女との恋愛に義理立てして心中したのである。こういう者を大阪弁で
「アホ」
という。これだけなら大坂町人にとって、色恋に狂ったただの「アホ」の情死に過ぎない。しかし近松はこれに義理人情をからませてストーリーを複雑にした。
勝手に進められた縁談だが、主人からの結納銀を徳兵衛の継母が受け取って返さない。何より徳兵衛は大親友だと思っていた油屋の九平次の苦境を救うために銀を用立てしたが騙され、かえって偽の判を使い偽証文をでっち上げたとされ、追いつめられる。そこへお初の身請け話も絡んでくる。
徳兵衛は商人としての信用を守るために死を選び、お初はその男のために死ぬ19歳の可憐な女として描かれた。
こうなると大坂の町人たちにも、受け入れられる話となった。なぜなら、ことが金銭にからみ商人としての信用問題となると、自分たちも身の証をたてるため死を選ぶと思えるからである。
「天満屋の段」では、九平次におとしいれられ進退窮まった徳兵衛を、お初は縁の下にかくまう。徳兵衛は彼女の足をとって自分の喉をなでて「死のう」という気持ちを知らせ、お初もそれに応じて決意を述べる。演じているのが人形であっても、ぞくりとする名シーンである。『曽根崎心中』は大ヒットした。
『曽根崎心中』が上演された元禄16年(1703)から翌年にかけて、上方で心中の嵐が吹き荒れた。『心中大鑑』なんて本まで出版され、その序文には「きのふも心中、けふもまた」と書かれる有様であった。
幕府はこの異常な心中の流行に厳罰で臨んだ。享保8年(1723)に出された法令には次のようにある。
(1)「心中」というと何となく格好がよく聞こえるので「相対死(あいたいじに)」、「申合人」の文言を使う。
(2)死骸は取り捨てとし、弔いを禁止する。(死骸は裸にして放置し、犬が喰おうが何をしようが放置する。見かねて親類が盗みにきた場合は取り締まるという意味である。)
(3)一方が生き残れば下手人として死罪、両方が生きながらえれば3日間さらしものにした上で、非人手下(てか)とする。
(4)心中を題材にした作品は禁止する。
心中は言うまでもなく反社会的行為であるが、心中にあこがれる若い男女がいたことも確かである。そしてその多くが商家の手代と新地の遊女であった。社会の下積みにいた人々と言える。
一方で近松門左衛門は、れっきとした武家の出であり、一時は京都で一条家に仕えた公家侍であった。つまり支配者側の教養を持った人物といえる。
その近松が描く心中は、反社会的行為を題材にしながら、義理・人情・貞操、そして人としての信用という倫理をうたっているようにも見える。このことが、太平の世であるように見えながらも、封建社会における家のしがらみに縛られ、金が金を生み、心まで金で買えるような世相に釈然としないものを感じていた人々の心に響いたのではないかと、ぼくは思う。
「お初天神」と境内のお初・徳兵衛像 |
追記.ぼく個人としては、近松の世話物の最高傑作はやはり「心中天の網島」だと思う。「曽根崎心中」より凝っている。
それにしても近松作品の中で心中する男の甘さというか身勝手さに、ドラえもんの「のび太」君に通じるものを感じるのはぼくだけだろうか。
2006.5.19