エピソード 『日本第一の建築  - 三仏寺投入堂 -』

 土門拳という写真家がいる。1990年に鬼籍に入られたので、正確には「いた」と言うべきかもしれない。

 報道写真の鬼と呼ばれたこともあり、リアリズム写真を確立した世界的な写真家である。『風貌』、『筑豊のこどもたち』などの作品集があるが、やはり土門拳といえば『古寺巡礼』であろう。

 その彼が著作の中で、「わたしは日本第一の建築は?と問われたら、 三仏寺投入堂をあげるに躊躇しないであろう。」と述べている。 (『古寺を訪ねて東へ西へ』)

 三仏寺は、修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ。役の行者とも呼ばれる。奈良時代の人)が、3枚のハスの花びらを散らし、「仏教に縁のあるところに落ちるように」と祈ったところ、その1枚が伯耆の三徳山に落ちた。この地を修験道の行場として開いたのが始まりとされている。その後、849年に円仁により釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来の三尊が安置され、天台宗寺院となったという。
 修験道は、呪術信仰と密教の山岳仏教が結びつき、鎌倉時代に成立した。天台宗系(台密系)は園城寺(三井寺)の末寺である京都の聖護院を、真言宗系(東密系)は醍醐寺三宝院を中心に発展した。
 役小角は「今昔物語集」や「日本霊異記」で、「よく鬼神を使い。水を汲ませ、薪を採らせた。もし鬼神が命に従わない時は、呪をもってこれを縛った」 など、その超人ぶりを描かれているが、奈良時代を記した正史である「続日本紀」にも登場するれっきとした実在の人物である。
  そして、この前鬼・後鬼という鬼を従え、空を飛ぶこともできたとされる役小角が、念力で投げ込んだとされているのが三仏寺投入堂である。

 まぁ、普通に考えれば、 

 「念力で投げ込んだ!?はぁ!?」 (今ブレイク中の魔邪コングのイメージで)

というところであろう。 しかし、これは

 本当に凄い!

 実際に行ってみれば、この「念力云々」という話を信じたくなる。 

 ぼくが訪れたのは、大学3年生の研究室旅行の時であった。実は恥ずかしながらそれまでぼくは、三仏寺投入堂というものを知らなかった。貸し切りバスを降り、三仏寺へ。ここから、「希望者は投入堂へどうぞ」ということであった。勢いでほとんどの学生が「行こう、行こう」ということになった。修験の場なので、「六根清浄」の輪袈裟を受け取り登山開始である。
 今でこそぼくは、登山部の顧問を経験して山道慣れしているが、思い起こせばこれが人生最初の「登山」であった。道もないような尾根を登ること約50分。断崖の投入堂を見上げる場所にたどり着いた。
 
 資料集の写真でみるより遙かに凄い。

「こんなもん平安時代にどうやって造ったんや」

みんな口々に同じことを言った。

 日本に「一生のうち一度は行ってみるべき場所」というのはいくつもあるのだろう。そして、この三仏寺投入堂は、間違いなくその中の一つである。

      

 実は、この投入堂登山には、続きがある。「行きはよいよい、帰りは怖い・・・。」
 上に「勢いでほとんどの学生が「行こう、行こう」ということになった。」と書いたが、文学部国史学科なので、当然半分近くは女子学生であった。ぼくは同期が5人だったが、うち2人は女子であった。彼女たちも一緒に登った。まさかこんなところに来るとは思っていなかったらしく、スカートである。
 スカートでも登ることはできる。しかし、下りは・・・。はじめは一緒に降りていたが、

「男子は先に降りといて」と言われて、ぼくたちはさっさと降りる。と、

きゃー」という悲鳴。「大丈夫か!」と戻っていった奴は、「来るな!」と石を投げられたという。

駐車場まで戻って、同期の女子学生曰く、

あ〜、親には見せられない格好で降りたわ。

2005.10.26

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