エピソード 「われ太平洋の橋たらんー新渡戸稲造と『武士道』ー」

 柳宗悦の話の最初でも触れたが、五千円札になる前に新渡戸博士を知っていた日本人は、どれくらいいただろう。聞くところでは、博士の故郷では突然、「新渡戸稲造饅頭」やら煎餅やら出現したそうだが。
 評論家の大宅壮一(この大宅壮一まで出題した大学があるから嫌になる)は、「科学者、国際人、武士道的愛国者、実務家、教師、社会教育家、宗教的平和主義者」と評し、更に「明治以後の”理想的日本人”はだれかということになると、各界を通じて第一人者とすることに異論が出るだろうが、総合判定では、ベスト・スリ−か、少なくともべストテンのなかに入ることは確実と見てよい。」と述べている。

 新渡戸稲造が受験で出題されるとしたら、国際連盟の事務次長として、『国連事務局の良心』『ジュネーブの星』(国際連盟の本部はジュネーブ)と賞され、異例の7年に及ぶ任期を勤めたことと、著書『武士道』であろう。(パリ講話会議で国際連盟が設立されることが決まり、事務次長のポストが日本に割り当てられた。人選に悩んでいた全権西園寺公望らは、たまたまパリの日本大使館を訪れた新渡戸を見て、「あっ、ここにいた!」と即決したという話が残っている。)
 とすると、日本が国際連盟の常任理事国となった項で、取り上げた方が自然だったかもしれないが、その輝かしい国連時代とは対象的に、日米開戦反対を訴え、アメリカで一年間に100回をこえる講演を行いながら、失意の内に世を去った晩年の方が、我々に多くの示唆を与えてくれると考える。

 『武士道』は1899年、新渡戸が36才の時、ペンシルバニアで英文で書かれ、翌年刊行されるや、瞬く間に世界中で翻訳された。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語をはじめとして、17カ国語に訳されていることも凄いが、アラビア語に訳されている日本の本なんて、他にあるんだろうか。(勉強不足ですみません→先日、黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』も訳されていますよ、というお便りをいただきました。)
  駐米英国大使のブライス卿に「英文学の珠玉」と賞賛され、後にポーツマス会議を斡旋するセオドア・ローズベルト大統領が、60冊買って知人に配りまくったというこの本は、英語を学ぶ日本人のためのテキストにもなった。当然、一般の日本人は「日本語訳本」として読むことになるのだが、今までに8回訳されたその訳者には、矢内原忠雄(1938)や奈良本辰也(1983)といった、顔ぶれが見られる。
 一読して真っ先に感嘆するのが、新渡戸博士の西洋、東洋の歴史・哲学・宗教などに関する底知れぬ学識と、冷静で合理的な分析。そして日本の精神文化を高く評するのみならず、世界中の文化に優劣はないという、本当の意味でのインターナショナリズムである。(あ〜、こうやって書くと陳腐になる。とにかく読んで欲しい。)
 彼が、東京大学の入試の時に、将来の希望を聞かれて、「太平洋の橋になりたい」と答えた話は有名だが、「西洋の思想を日本に伝え、東洋の思想を西洋に伝える」という入学試験の際の思いを越えて、新渡戸は太平洋戦争へ突き進もうとする日米間の架け橋となろうとした。
 しかし、そんな彼が世間から「国賊」呼ばわりされるようになる。きっかけは、昭和7年に四国松山で行われた講演の後、マスコミにオフレコと断った上で「日本を滅ぼすのは共産党より軍閥だ」と言ったことを、愛媛新聞が書き立て、これを受けて在郷軍人たちが騒いだことであった。新渡戸は頑迷な日本人よりも、直接アメリカを日米不戦へと説得しようと渡米したが、軍部の行動は彼の話の説得力を奪っていった。
 国内では、「他者の戦争責任や人権侵害には極めて厳しいあの大新聞」が、『国賊新渡戸博士の自決を促す』という論説を掲載した。(そう言えば、「ポーツマス条約の時、小村寿太郎外相を非難して戦争継続を主張し、国民を煽り立てた」のも、「満州事変に反対の政府に対し、兵士を見捨てるのかと軍部支持の世論をリードすることで発行部数を伸ばした」のも、「三国同盟に反対の米内内閣を、弱腰と激しく非難した」のも、この新聞社だったなあ。かつて上智大学で、「大新聞の戦争協力」というテーマで作成された入試問題が出たことがある。)
 新渡戸稲造は昭和8年、死の直前のカナダでの講演の最後を、こう締めくくっている。

異った国民相互の個人的接触こそ、悩み多き世界に測り知れぬ効果をもたらすものではないだろうか。世界中より参じた国民の親密な接触によって、やがて感情ではなく理性が、利己ではなく正義が、人類並びに国家の裁定たる日が来るであろうことを、私がここに期待するのは、余りに大きな望みであろうか。

(2002.8)
(2003.10.13一部加筆)

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