受験生の中で柳宗悦の名前を知っている人が、どれくらいいるだろうか。恥ずかしながら、僕自身は知らなかった。しかし五千円札になって初めて有名になった新渡戸稲造(紙幣の顔になった時、「誰やこれ?ケンタッキー・フライドチキンのおっさんか!」という声を聞いた)同様、もっと日本人が知るべきインターナショナリストだと思う。
本編ではキーワードを民芸運動としたが、宗教哲学者でもある。 欧米人に劣等感や被圧迫感を持たず、朝鮮人に対して優越感や支配者意識を持たない、戦前の日本人(今の日本人でも?)としては珍しい人物だった。
しかし柳は、西洋文明を否定していたのではない。それどころかわずか26歳で『ヰリアム・ブレーク』という英文学研究史上に残る作品を書き上げている。柳が朝鮮人に対して差別意識を持たなかったのは、朝鮮の工芸を美しいと感じ、それを産み出す人々を敬愛したからであった。特に三・一独立運動(万歳事件)(1919)について新聞に連載した『朝鮮人を想う』を見ても、柳が常に自分を朝鮮人の立場に置き換えて、日本の植民地政策に憤りを感じていたことが分かる。
この姿勢は、アイヌ文化や沖縄文化に対しても貫かれている。満州事変(1931)が勃発すると、沖縄やアイヌの人々に対する「ヤマト化政策」が強化されていった。柳は「他府県では行われない標準語奨励の運動を、なぜ沖縄でのみ行うのか。何か沖縄の言語を野蛮視しているのではないか。」とこれを批判し、日本国内の異質なものを尊重せよと主張した。
柳は東洋と西洋、中央と地方(方言の価値を含む)を対等に見ていた。『朝鮮人を想う』の連載の最後に、彼はこう結んでいる。
「 朝鮮の人々よ、よし余の国の識者の凡てが御身等を罵り又御身等を苦める事があっても、彼等の中に此一文を草した者のゐる事を知ってほしい。否、余のみならず、余の愛する凡ての余の知友は同じ愛情を御身等に感じてゐる事を知ってほしい。かくて吾々の国が正しい人道を踏んでゐないと云ふ明らかな反省が吾々の間にある事を知ってほしい」
戦後になってからでもいい。この言葉と認識を、もっと多くの日本人がはっきりと持ち、口にしていたなら、21世紀の今になってなお、日韓の高校生の間にまで溝を残さずに済んだように思う。