小村寿太郎が、明治日本が生んだ天才外交官であることは言うまでもない。現在の宮崎県日南市出身で、15才で東大へ入学、20才で文部省派遣でハーバード大学へ留学した。
ポーツマス条約では、考えられる限り最もいい条件で話をまとめた。引き分けの戦争で、しかも日本には継戦能力がなく、相手の国力の方が上という中で、あれだけ分捕っていたきたのは見事というしかない。実情を知らされてない国民からは、条約交渉の失敗と言われ、家を襲われたりしたが、身長143pのこの男が、180pを越えるヴィッテを相手にした姿は、古代中国の晏子を彷彿とさせる。しかも1911年に不平等条約の改正に成功して、同年に死去するなど明治に殉じた感すらある。小村を悪く言う書物をほとんど見たことがないが、このハリマン覚書をめぐる小村の判断は、その後の日本の運命を大きく変えることとなった。
アメリカの鉄道王ハリマンは、ポーツマス条約締結後、桂首相に南満州鉄道の共同経営を提案した。ハリマンには夢があった。南満州鉄道をシベリア鉄道につなげ、バルト海へでる。そこからアメリカ東海岸へと結んで、世界一周鉄道をつくるというものであった。
伊藤博文や井上馨は、この申し出に賛成した。特に井上は、北満州に依然として大軍を擁しているロシアを牽制するために、アメリカを抱き込む妙案だと考えた。その意見に従って、桂はハリマンと共同経営の覚書を交わした。しかし、ポーツマスから帰国した小村は、血も流さなかったアメリカに、満鉄の権益を渡すのは外交上の恥だと訴えた。そして北京へ飛び、清国との間で、満州に第三国が資本投下するのを阻止する条約を結んだ。1906年1月、日本は覚書の廃棄を正式に通告。南満州鉄道株式会社を設立した。これと時を同じくして、カリフォルニアで日本人の排斥運動が議会や教育委員会で決定されたのは、本編で記した通りである。
アメリカは、日本がハリマン覚書を無効にしたのは、日本が中国大陸からアメリカを締め出すためだと理解した。その報復手段をとったわけである。同時にオレンジ計画に着手して、対日戦略に取り組み、太平洋に大艦隊をつくっていく。太平洋戦争への端緒は、この時開かれたとも言える。
歴史に「もし」はないので、小村と井上の判断のどちらが正しかったかは分からない。小村の主張にも井上の考えにも、ちゃんと筋は通っていた。まぁ、確かなことは、アメリカの、自国の利益に反する姿勢をとる国は、全て悪であり、潰すべきだと考える姿勢は、今も100年前も変わっていないという点であろう。
ところで、受験関係を1つ。小村寿太郎は、ポーツマス条約→第1次桂太郎内閣の外相。関税自主権の回復に成功した→第2次桂太郎内閣の外相である。