2011年度 『筑波大学 その3』

19世紀前半の欧米諸国との関係


【V】19世紀前半における日本と欧米諸国の関係の推移について、次の(ア)〜(エ)の語句を用いて論述せよ。解答文中、これらの語句には下線を付せ。ただし、語句使用の順序は自由とする。

(ア)鳴滝塾  (イ)フェートン号  (ウ)捕鯨  (エ)『戊戌夢物語』


<考え方>
 問われていることは、

ア テーマ:日本と欧米諸国との関係の推移
イ 時 期:19世紀前半。つまり1800年代前半

である。

 ここでは、指定された4つの語句から、普通に連想できることをまず考えてみよう。

(ア) 鳴滝塾→シーボルト、ドイツ人医師、医学、洋学(蘭学)の発展、シーボルト事件
(イ) フェートン号事件→1808年、イギリス船、長崎で乱暴、長崎奉行松平康英切腹→異国船打払令発令の原因
(ウ) 捕鯨→イギリス、アメリカの捕鯨船が日本近海に出没、上陸して略奪→異国船打払令発令の原因
(エ) 『戊戌夢物語』→高野長英、モリソン号事件を批判、尚歯会、蛮社の獄

 ここから組み立てられるイメージは何か。

 医学を教えた鳴滝塾にみられるように、実学を蘭学として受容し普及していったが、フェートン号事件捕鯨船が日本近海に出没して、上陸し略奪行為を行ったことから、異国船打払令が出された。そのため、日本人漂流民を送り届けようとしたモリソン号を撃退する事件が起こり、これを『戊戌夢物語』で批判した高野長英らが弾圧される蛮社の獄が起こった。

 つまり、外国船の接近に対する幕府の対応と、蘭学の受容・普及と弾圧の二本立てで書けばよいのだと判断できる。

 ちなみに外国船の接近に関しては、2010年度の阪大の第3問が18世紀後半以降のロシア船の接近である。今回の筑波大の問題の指示語にロシア関係は含まれていないが、見落とさないようにしたい。

 時期は1800年代前半だから1804年のレザノフの長崎来航、1808年のフェートン号事件から、1844年のオランダ国王の開国勧告、1846年のビッドル来航までとなる。

 山川の『詳説 日本史』でいうと、P.206〜208及びP.218のL.13〜L.18、そしてP.227のL.9〜L.16までを400字でまとめればよい。

 なお、ぼくの解答例では、シーボルト事件、ビッドル来航はカットした。第2問の「永仁の徳政令」とは逆に、今回は書けることがたくさんあって字数が足りなくなるからである。

 ポイントと考えたのは、「19世紀初頭の外国船とのトラブルで国防が強化され、異国船打払令がだされた。その後、異国船打払令はアヘン戦争の影響で緩和されたが、開国はしなかった。他方、実学としての洋学(蘭学)が受容されていたが、幕政批判を押さえ込むため、蛮社の獄などで弾圧された。」という流れである。


<野澤の解答例>
19世紀初め、ロシア使節レザノフに対する冷淡な扱いに対し、ロシア船が樺太などを攻撃したり、イギリス船フェートン号が長崎で乱暴に及ぶ事件が起こったりした。これに対し幕府は蝦夷地を直轄にし、江戸湾の警備を強化した。ロシアとの関係はゴローゥニン事件を機に改善されたが、その後もイギリス、アメリカの捕鯨船が日本近海に出没し、薪水・食料などを強要することが多くなった。そのため幕府は異国船打払令を出し、外国船を撃退するよう命じた。一方で長崎にシーボルトが鳴滝塾を開いて医学を教えるなど、実学としての洋学が受容され普及していた。しかしモリソン号事件が起こり、これを『戊戌夢物語』で批判した高野長英らの蘭学者が弾圧される蛮社の獄などが起こると、幕政批判を抑えるため洋学研究は規制を受けるようになった。その後、異国船打払令はアヘン戦争の結果を受けて緩和されたが、オランダ国王の開国勧告に対しては、幕府はこれを拒絶した。 (400字)

2011.4.9

 
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