2009年度 『筑波大学 その2』


【U】「承久の乱」前後の朝廷と幕府の関係について、次のア〜エの語句を用いて、400字以内で論述せよ。解答文中、これらの語句には下線を付せ。ただし、語句使用の順序は自由とする。

     ア 新補地頭   イ 九条頼経   ウ 後鳥羽上皇   エ 執 権

<考え方>
 問われていることは、あくまで承久の乱前後の朝幕関係である。
 通史の「鎌倉時代編2」に承久の乱の歴史的意義として、ぼくは次の2点を上げている。

@幕府の勝利により、幕府権力は不動のものとなり、皇位継承や朝廷の政治にも干渉するようになった。簡単に言うと、公武二元支配であることには変わりはなかったが、公家優位から、武家優位の公武二元支配となったと言える。
A新補地頭の設置により、畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が広くおよぶようになり、六波羅探題を中心とする幕府の西国支配体制が成立した。

 これはどの教科書でも、承久の乱に関する記述をまとめるだけで書ける。山川の教科書ならP.93〜94の本文および脚注である。抜き出していくと、

(1)朝廷では後鳥羽上皇による朝廷政治の立て直しが行われていた。上皇は分散していた皇室領荘園を手中におさめるとともに、新たに西面の武士をおいて軍事力の増強をはかるなど院政を強化し、幕府と対決して勢力を挽回する動きを強めた。
(2)3代将軍源実朝が暗殺された事件をきっかけに朝幕関係は不安定になった。後鳥羽上皇は畿内・西国の武士や大寺院の僧兵、さらに執権北条氏の勢力増大に反発する東国武士の一部を味方に引き入れて、執権北条義時追討の兵をあげた。
(3)北条義時は、実朝の死後、皇族を将軍に招く交渉をしたが、上皇が拒否して交渉は不調に終わった。そこで幕府は、頼朝の遠縁にあたる九条頼経を摂家将軍として迎えた。
(4)東国武士の大多数は執権北条氏のもと結集して戦いに臨み、幕府は1ヶ月で圧倒的な勝利をおさめ、3上皇を配流した。
(5)乱後、幕府は皇位継承に介入し、京都には新たに六波羅探題をおいて、京都を監視、西国の統轄にあたらせた。
(6)上皇方の貴族や武士の所領3000余カ所を没収し、これまで地頭が置かれていなかった所にも、戦功のあった御家人を新補地頭として任命した。
(7)これによって畿内・西国の荘園・公領にも幕府の力が広くおよぶようになった。
(8)朝廷と幕府の二元支配の状況は、幕府が優位にたって、皇位継承や朝廷の政治にも干渉するようになった。

 これを400字以内にまとめればよい。
 

<野澤の解答例>
3代将軍源実朝が暗殺された事件をきっかけに、朝幕関係は不安定になった。幕府は皇族を将軍に招こうとしたが、後鳥羽上皇に拒否され、九条頼経を摂家将軍として迎えた。すでに西面の武士をおいて軍事力の増強をはかるなど院政を強化し、幕府と対決して勢力を挽回する動きを強めていた後鳥羽上皇は、畿内・西国の武士や僧兵などを味方に引き入れて、北条義時追討の兵をあげた。しかし東国武士の多くは執権北条氏のもとに結集して戦いに臨み、幕府は1ヶ月で圧倒的な勝利をおさめた。乱後、幕府は3上皇を配流するとともに皇位継承や朝廷の政治にも介入するようになり、京都には新たに六波羅探題をおいて、京都の監視、西国の統轄にあたらせた。また上皇方の貴族や武士の所領を没収し、これまで地頭が置かれていなかった所にも御家人を新補地頭として任命した。これにより幕府の力は畿内・西国にも広く及ぶようになり、公武二元支配の状況は、幕府優位となった。 (400字)

2010.3.21

 
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