東大チャート 1991年度 東京大学 第3問 解答例と解説

ー 後醍醐天皇の政治 ー
  

<野澤の解答例>

A 武家政治の否定に加えて、先例重視であった貴族政治の慣習をも改め、院政や摂関を廃止して重要政務機関として記録所を設置し、綸旨に絶対的効力を持たせるなど、天皇中心の専制政治をめざした。(150字)


B 家格重視の公家政治をよしとする立場から、勲功重視による武士への恩賞給与や家格を無視した人材登用が、公家の経済的窮乏や身分秩序の混乱を招き、天皇の威信を低下させたと批判している。(150字)


 武家政治→武家政権
 貴族政治←→公家政治  
 綸旨に絶対的効力を持たせる→綸旨に強い力を持たせる
 天皇中心の専制政治をめざした→天皇への権力の集中をめざした

 など、同じ意味の言葉はもちろん構わない。


<解説>
設問Aについて。
 チャートには「鎌倉幕府の倒幕」は答えにならないと書いたが、天皇が武家政治(武家政権)そのものを否定したことは、たとえ鎌倉将軍府が実体としてはミニ幕府と言えるようなものであったとしても、理念としては貫かれており、解答例に加えた。

 後醍醐天皇がめざしたものについては、山川の『詳説日本史』は「天皇への権力の集中」とあるが、ここは三省堂の教科書にある天皇中心の専制政治という表現を用いさせてもらった。

 また、「目新しい政治改革」として、院政、摂関の廃止、記録所の設置、綸旨に絶対的効力の3つを解答例に用いた。
 『詳説日本史』のP.115には、この3つにあわせて「幕府の引付を踏襲した雑訴決断所」の設置が挙げられているが、これは文字通り幕府の制度を踏襲しており、目新しい政治改革とは言えないとぼくは判断した。


 そのほかの流れはチャート図の通りである。


設問Bについて。
Aブロックにある「積年の弊」とは何か。一掃するべき長年の弊害だが、できなかったこと。討幕には成功しているので、武家政治ではない。続きに「本所の領地でさえもことごとく勲功のあった者に与えられた」とあるので、所領のことだと分かる。
 土地は本所のものであるが、鎌倉時代は地頭の荘園侵略が行われ、貴族の経済基盤を脅かしていた。親房は後醍醐天皇がこれを一掃することを期待していたのに、果たせなかったという意味である。

 そればかりか、本来貴族の本所であったところまで、勲功重視の方針のため武士に恩賞として与えられた。その結果、由緒ある家も名ばかりとなり、経済的に窮乏した。(Bブロック

 つまり親房は、武士による荘園侵略をやめさせるどころか、勲功重視のため武士への恩賞として本来貴族の本所であった土地まで与えられ、貴族を経済的に窮乏させたDブロック)と批判しているのである。

Cブロックの「由緒ある家」とは何か。これについては発展「鎌倉時代の将軍って何ですか?ー東大入試問題に学ぶ1ー(1997年第2問)」で、「鎌倉時代は、五摂家に代表されるように公家の家格が確定し、家柄と官位が固定化された時代でもあった。」と述べたとおりである。
 まさに三省堂の教科書に記されている「天皇が家柄や官位を無視して、自由に官職の任免を行ったので、武士だけでなく公家の反発も強かった。」わけである。つまり親房は、公家の家格を無視した人材登用を批判している。
 そして「勲功によって公家・武家を問わずに登用された天皇の側近が政治を堕落させた。」として、親房は、勲功重視で公武に関係なく政治に登用され、そのことを鼻にかけた=力を持った側近たちが現れた一方、由緒ある家が名ばかりになるなど、身分秩序を混乱させDブロック)、これが天皇の威信を低下させたと批判している。

 これらのことから親房の立場は、家格重視の公家政治を正しいとする立場であると読み取れる。


(参考)発展 『建武新政の恩賞は本当に不平等だったのか?』ー東大入試問題に学ぶ3ー

2011.4.26

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