2013年度 『京都大学 第W問(2)』

明治期の初等教育制度

明治期における初等教育制度とその普及について、教育法令の変遷や男女の就学率に留意して述べよ。 (200字以内)

<考え方> 
問われていることは、
(1) 明治期の初等教育制度とその普及について書く。
(2) 教育法令の変遷に留意として書く。
(3) 男女の就学率に留意
して書く。
(4) 200字で書く。
ことである。

 これはぼくのノートの「通史編 近代編前期10 明治文化1」の(1)教育の普及の項の流れで書けばよいと思う。
 つまり、学制(フランス式:国民皆学を目指したが画一的で批判)→教育令(アメリカ式:自由主義→放任主義への混乱で翌年改正)→学校令(ドイツ式:小学令で義務教育4年。制度として確立)+教育勅語で忠君愛国強調。就学率が1907年には就学率が97%を越えたと言うことは、日露戦争が終わるころには、女子もほとんど学校に通っていた。

 これに該当する部分を教科書(山川『詳説 日本史』)から抜き出してみる。

 と思ったのだけど、これ、P.288.L17〜289.L13の「教育の普及」の要約でいい。学制の説明にP.246の「国民皆学の建設をめざした」という記述を加えて、就学率の推移は、P.289の脚注のAにそのまま書いてある

 解説の余地がない(笑)。いうわけで、ぼくは以下のように要約しました。
 
<野澤の解答例>
明治初年、国民皆学をめざして学制を公布したが、画一的な強制に対する批判から自由主義的な教育令に改めた。しかし混乱から翌年には改正された。明治中期に学校令が公布され、義務教育4年とする制度が整った。また教育勅語によって忠君愛国が強調された。就学率は、明治中期まで女子は男子の半分ほどであったが、義務教育期間の授業料が廃止されると上昇し、義務教育が6年に延長された日露戦争後には男女ともほぼ100%になった。(200字)

 
2013.3.10


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