2012年度 『京都大学 その1』

縄文から古墳時代初期の墓制の変遷

【W】(1)カッコ内の語句をすべて使って、縄文時代から古墳時代のはじまりまでの墓や墓地の変遷を、貧富の差、身分の区別の発生や、社会の発展と関連づけて述べよ。なお、使用したカッコ内の語句には下線を引くこと。
(竪穴式石室、副葬品、屈葬、墳丘墓、前方後円墳、髪棺墓) (200字以内)

<考え方> 
 これは、2009年度筑波大学の第1問(墓制から見る縄文時代から古墳時代に及ぶ社会の変化)と全く同じと言っても良い。
 違いは筑波大学が400字であるのに対して、京大が200字。そして筑波大学は「群集憤」を指定語句にして古墳時代の後期までを論述させたが、京大は古墳時代のはじまりまでとなっていることぐらいである。

 今回、京大で指定されている語句は、竪穴式石室副葬品屈葬墳丘墓前方後円墳甕棺墓

 2009年度の筑波大学は、前方後円墳屈葬、群集墳、伸展葬

 問われていることも、筑波大学が、「縄文時代から古墳時代に及ぶ社会の変化」であったのに対し、今回も「貧富の差、身分の区別の発生や、社会の発展」であり、同じである。

 手を抜くようで申し訳ないが、2009年度の筑波大学の解答例を修正する形で作成したい。

<2009年度筑波大学の第1問に対する野澤の解答例>
縄文時代にはアニミズムが信じられ、屈葬が行われた。副葬品はなく、採集経済であり身分や貧富の差はなかった。弥生時代になると甕棺などに伸展葬されるようになる。副葬品から農耕社会の成立とともに階級が生じたと考えられる。蓄積された富を巡って戦いが始まり、環濠集落等が形成され、各地にクニとよばれる政治的なまとまりが分立した。3世紀になると前方後円墳が作られるようになる。これは各地の首長たちの共通の墓制として作りだされたもので、古墳の出現に先立ち広域の政治連合が形成されていたと考えられる。5世紀になると前方後円墳は巨大化し全国に築かれ、ヤマト政権の支配領域が東日本へも拡大したことがわかる。副葬品から首長の性格が、司祭者的から武人的に変化したことがうかがえる。6世紀になると有力農民によって群集墳が築かれるようになる。これは政権が、新たに台頭してきた有力農民層を、直接支配下におこうとしたためと考えられる。 (400字)

 すでに副葬品、甕棺墓(甕棺)は使われているので、新たに加える語句は墳丘墓と竪穴式石室である。そのうち、竪穴式石室は「竪穴式石室をもつ前方後円墳」と結び付けられるので、実際には墳丘墓だけである。

 山川の『詳説 日本史』には、
「盛り土をもった墓が広範囲に出現するのも、弥生時代の特色である。方形の低い墳丘のまわりに溝をめぐらした方形周溝墓が各地にみられるほか、後期になると西日本の中心にかなり大規模な墳丘を持つ墓が出現した。(略)こうした大型の墳丘墓や多量の副葬品を持つ墓の出現は、集団の中に身分差があらわれ、各地に強力な支配者が出現したことを示している。」(P.14〜15)

 筑波のものに、このポイントを加えて200字でまとまればよい。 

 <野澤の解答例>
縄文時代の屈葬された墓には副葬品がなく、身分や貧富の差はなかったことが分かる。弥生時代の甕棺墓などからは多数の副葬品が見られ、農耕社会の成立とともに階級が生じたと考えられる。後期には、かなり大規模な墳丘墓が出現し、各地に強力な支配者が出現したことが分かる。古墳時代になると竪穴式石室を持つ前方後円墳が、首長たちの共通の墓制として作りだされ、近畿地方の政治連合としてヤマト政権が形成されたと考えられる。(200字)

 
2012.3.14


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