2009年度 『筑波大学 その1』
【T】縄文時代から古墳時代に及ぶ社会の変化について、次のア〜エの語句を用いて、400字以内で論述せよ。解答文中、これらの語句には下線を付せ。ただし、語句使用の順序は自由とする。
ア 前方後円墳 イ 屈 葬 ウ 群集墳 エ 伸展葬
<考え方>
指定されている語句は、すべて埋葬形態であるが、あくまで問われているのは社会の変化である。墓制の説明ではない。墓制から読み取れる社会の様子を記さなければならない。これは教科書のそれぞれの語句の周囲の記述をまとめれば書ける。
逆に書きたいことがたくさんあって400字に削る方が難しいのではないか。
(1)屈葬=縄文時代→ほとんどが屈葬されている。アニミズムが信じられていた。副葬品もなく集団に統率者はいても、身分の上下や貧富は差がない。←狩猟と採集の生活(採集経済)であったから。死者の霊を恐れたためと考えられる云々は、説明として必要かもしれないが、枝葉である。
(2)伸展葬=弥生時代→甕棺などに埋葬されたが、副葬品も見られ階級社会となった。←農耕社会が成立するとともに、蓄積された余剰生産物(富)をめぐって戦いがはじまった。環濠集落や高地性集落が形成され、各地にクニとよばれる政治的なまとまりが分立した。
(3)前方後円墳=3世紀(古墳時代前期)に首長の登場。各地の首長たちの共通の墓制としてつくりだされたもので、それに先だって広域の政治連合が形成されていた。5世紀(古墳時代中期)に巨大な前方後円墳=ヤマト政権の盟主の墓。首長の性格も副葬品から司祭者的性格から武人的性格となったことがわかる。同じ様式の墓制から政権の勢力拡大がわかる。(東日本も影響下に置いた。)6世紀(古墳時代後期)→巨大な前方後円墳は畿内のみ→ヤマト政権は近畿地方の勢力に各地の豪族が服属する形へ変化。
(4)群集墳=6世紀(古墳時代後期)有力農民層が成長し、古墳をつくるようになったことのあらわれ。本来は首長層だけで構成されていたヤマト政権の身分制度に、新たに台頭してきた有力農民層を組み入れて、直接支配下におこうとした。
これを400字以内にまとめる。何を削るかが難しいが、ぼくは、「身分のない時代」→「階級社会」→「豪族の政治連合」→「ヤマト政権の勢力拡大」→「有力農民の成長と政権の対応」を軸に組み立てた。
<野澤の解答例>
縄文時代にはアニミズムが信じられ、屈葬が行われた。副葬品はなく、採集経済であり身分や貧富の差はなかった。弥生時代になると甕棺などに伸展葬されるようになる。副葬品から農耕社会の成立とともに階級が生じたと考えられる。蓄積された富を巡って戦いが始まり、環濠集落等が形成され、各地にクニとよばれる政治的なまとまりが分立した。3世紀になると前方後円墳が作られるようになる。これは各地の首長たちの共通の墓制として作りだされたもので、古墳の出現に先立ち広域の政治連合が形成されていたと考えられる。5世紀になると前方後円墳は巨大化し全国に築かれ、ヤマト政権の支配領域が東日本へも拡大したことがわかる。副葬品から首長の性格が、司祭者的から武人的に変化したことがうかがえる。6世紀になると有力農民によって群集墳が築かれるようになる。これは政権が、新たに台頭してきた有力農民層を、直接支配下におこうとしたためと考えられる。 (400字)
2010.3.20
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