2012年度 『大阪大学 その3』
17世紀のキリスト教政策の展開
(V)江戸時代、幕府はキリスト教に対してどのような姿勢で臨んだのか。17世紀におけるキリスト教政策の展開について具体的に述べなさい。(200字程度)
<考え方>
問われていることは
(1) 江戸幕府のキリスト教政策を書く
(2) 17世紀の展開を書く
である。
17世紀というと1600年代だから、幕府が開かれた1603年は分かるとして、終わりはいつまでかを確認しておかなければならない。16世紀の末か17世紀初頭の出来事で、受験生が全員知っているのは、1715年の長崎新令であろうか。ということは、新井白石は18世紀に活躍した人ということになる(新井白石の登用は1709年)ので、後ろは5代将軍綱吉までと考えて良い。
とすると、ほとんど鎖国の成立と並行して考えればよいとイメージできる。
通史編の「近世編3 江戸初期の外交〜鎖国の形成」の冒頭でも記したとおり、江戸時代初期の外交の基本的な流れは、「江戸幕府は当初は、貿易に積極的」→「幕府による貿易の独占とキリスト教の禁止を目的に、いわゆる鎖国政策に転換」である。
それでは実教の「日本史B」から該当する箇所を抜き出していこう。
と言ったところで、今回は第1問とは逆のことが起こった。P.187のL17から「キリスト教の禁止と貿易の制限」という項目があり、そこからP190までに今回の答案がそのまままとめられている。
(1) 家康は、貿易奨励もあってキリスト教の布教活動を黙認していた。そのため、イエズス会だけではなく他の会派の宣教師も来日し、信徒は増大した。しかし幕府はキリスト教が神仏信仰を否定していること、信徒が信仰によって団結するおそれがあること、イスパニア・ポルトガルが布教を通じて日本を侵略する可能性があることなどにより、禁教策に転じるようになった。
(2) 1612年、幕府はキリシタン武士の改易や直轄都市での教会破壊をおこなった。翌年には全面的な禁教を宣言し、宣教師を追放した。以後、幕府はきびしい禁教策をとり、信徒に改宗を強制し、宣教師や改宗しない者には過酷な迫害を加えた。
(3) 幕府は禁教令を徹底するために、貿易や海外との往来を制限するようになった。(略)この間、1624年にはイスパニア船の来航を禁じた。(略)1635年には日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止した。
(4) 島原の乱は、幕府や大名にキリスト教への警戒をさらに深めさせた。1639年、幕府はポルトガル船の来航を禁止し、1641年には、平戸のオランダ商館をポルトガル人の去ったあとの長崎出島に移した。
(5) 幕府は、鎖国をすすめるなかで宗門改(→P.181)を実施したが、鎖国の完成以後、取り締まりをいっそうきびしくし、信徒でないことを証明させる踏絵をおこなったり、密告を奨励したりして信徒の発見につとめ、信徒をきびしく処罰した。
(6) 幕府は家光のころからキリスト教根絶のため宗門改をおこない、人々がいずれかの寺院の檀徒(檀家・檀那)となることにしたので(寺請制度)、寺院は支配の末端機関としての性格を強め、宗門の教えは固定化する傾向にあった。(P.181)
これを200字程度でまとめる。
<野澤の解答例>
当初家康は、貿易奨励もあって布教活動を黙認したため、多くの宣教師が来日し信徒は増大した。しかし江戸幕府は、信徒の団結やイスパニア・ポルトガルによる侵略の可能性などから禁教策に転じた。幕府はキリシタン武士の改易に続いて全面的な禁教を宣言し、宣教師や改宗しない者に過酷な迫害を加えた。そして禁教令の徹底のため、鎖国体制を整えた。島原の乱後は警戒をさらに強め、宗門改を行って寺請制度を実施し、踏絵を行うなどキリスト教徒根絶を図った。(213字)
200字程度なので、「イスパニア・ポルトガル」をキリスト教国にして209字にしようかと思ったのだが、オランダもキリスト教国であり、それなら「旧教国」と書くべきである。
また、「キリシタン武士の改易に続いて全面的な禁教を宣言し」を「幕領に続いて全国にも禁教を宣言し」にすれば205字となり、この方がバランスもいいように思う。
ただ、このコーナーは「実教の教科書の抜き書きと要約で作成する」ことを前提としていることと、阪大の解答用紙は罫線であり、字数はあまり気にしなくてよいということで、プラス1割以内に収まる213字の答案とした。
2012.2.29