2012年度 『大阪大学 その2』

足利義満の朝廷・外交政策


(U)足利義満は花の御所や北山殿を拠点に、さまざまな政策を展開して政治的な安定を図った。足利義満が行った政治のうち、朝廷や外交にかかわる政策について具体的に述べなさい。(200字程度)

<考え方>
 問われていることは

(1) 足利義満が行った朝廷にかかわる政策について書く
(2) 足利義満が行った外交にかかわる政策について書く

である。
 受験生がすぐに思いつくのは、
対朝廷政策:南北朝の合体
対外政策:日明貿易開始、日朝貿易開始
であろう。

 問題を見て最初に思ったのは、阪大は受験生に「日明貿易は明が義満を日本国王と認めたからできたのだという、中国による冊封体制の何たるかが理解できているか」を問うているのだろうかということであった。
 つまり表面上は、「朝廷にかかわる政策」と「外交にかかわる政策」とに分けて問うているが、「日明貿易は、ただの外交問題ではなく、天皇ではなく、義満が国王と認められたという対朝廷問題もからんでいる」ことまで、理解が試されているのかであった。

 この「朝貢貿易の本質への理解」についてぼくは、今年のセンター試験Bの解説でも次のように述べた。

明は海禁政策をとっており、明と貿易するためには朝貢形式(冊封体制に入る)しかなかった。朝貢は中国から一国の王と認められなければ行えない。」

 この点は、実教の「日本史B」には「明では義満を日本国王に任命し、1404年、日本からの朝貢の形で日明貿易が開始された。」、山川の「詳説 日本史」には「国交をひらくにあたり(略)明の皇帝は「日本国王源道義」(道義は義満の法号)あての返書と明の暦を義満にあたえた。」と記してある。

 今年のセンター試験でも感じたことだが、大学入試センターも含めて、国公立の問題では、ただ歴史的事項を覚えるだけではなく、その背景や本質を理解できているかが、問われることが多くなってきたとつくづく思う。

 さて、実教の「日本史B」から義満の政策のうち、朝廷にかかわるものと、外交にかかわるものを単純に抜き出してみる。

<朝廷にかかわるもの>
(1) いちじ南朝方に制圧されていた九州も、九州探題として下向した今川貞世が、1372年に大宰府を制してからは北朝の勢力下にはいって安定にむかった。
(2) 義満の斡旋を受けて、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲位して、ここに両朝の合体が実現した。
(3) 義満は将軍職を義持にゆずり、みずからは太政大臣となって、事実上公武の両権をにぎるとともに、さらに翌年には太政大臣を辞任して出家し、法皇に準じた扱いを受けて政治をつづけた。
(4) 義満は妻を後小松天皇の准母(名目上の母)とし、天皇を猶子(形式上の養子)とした。
(5) 侍所が検非違使庁にかわって京都の市中警察権をにぎるようになり(略)侍所の所司は山城国の守護を兼務することが多かった。これまで朝廷は長いあいだ検非違使庁によって京都の市中警察権を掌握し続けていた。

<外交にかかわるもの>
(1) 明をたてた朱元璋は、翌年、日本に入貢をうながすとともに倭寇の取り締まりを要求した。明では海禁政策がとられ、一般の中国人の海外渡航や海上貿易を禁止したため、貿易の道をとざされたわが国では新しい対応をせまられた。
(2) 国家による貿易統制の利益に目をつけた義満は、1401年、側近の祖阿、博多の商人肥富らの使者を明につかわして日本の統一を知らせ、国交を求めた。これに対して、明では義満を日本国王に任命し、1404年、日本からの朝貢の形で日明貿易が開始された。貿易船は私貿易の船と区別するため明の皇帝が発行する勘合をたずさえていき、勘合貿易の形式がとられた。(略)輸入された大量の銅銭は、日本国内に流通し、産業経済の発展に寄与した。
(3) 朝鮮は日本に対して倭寇の禁止を要求し、義満もこれに応じて国交が開かれ、対馬の宗氏の統制のもとに西国の大名や博多の商人が参加して公貿易がおこなわれた。

 これを200字程度でまとめる。
 ただし、ぼくとしては、「日明貿易は義満が明から日本国王と認められたからこそ行えた」という部分にはこだわった。もっとも阪大がそれを要求していたかは分からない。


<野澤の解答例>
 足利義満は、南朝側から北朝への譲位という形で南北朝の合体を実現した。将軍職を辞した後も太政大臣となって公武の両権を握り、さらに出家して法皇に準じた扱いを受けた。また、幕府は朝廷にかわって京都の市中警察権をにぎった。貿易の利益に着目し、明の求めに応じて倭寇を禁圧するとともに、明から日本国王に任命されて、勘合を用いて朝貢形式で貿易を始めた。輸入された大量の銅銭は、日本経済の発展に寄与した。さらに朝鮮とも貿易を行った。(208字)

2012.2.28


 
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