2012年度大学入試センター試験『日本史B』問題解説

日本史B
 

第1問
問1.Bが正解。猫でもできる。南蛮屏風とは日本人が描いた西洋人の風俗の様子である。@の正倉院鳥毛立女屏風が天平文化のものであるのは常識。当然、宋は唐の誤りである。Aの濃絵は桃山文化。ちなみに平安貴族の邸宅の屏風には大和絵で日本の風物が描かれた。Cの錦絵は鈴木春信が創始した多色刷りの浮世絵版画であり、この技術によって浮世絵が安価で大量につくられるようになり、庶民に普及することとなった。
問2.Bが正解。これまた猫問。aの平曲の伴奏が琵琶でなければ琵琶法師は何を弾いたのか?dのラジオ放送が1925年開始なのは頻出。以前、「関東大震災(1923)の情報伝達に開設されたばかりのラジオ放送が役だった。」(もちろん×)という問いもあった。
問3.Dが正解。これも猫。文化財保護法が何年制定だったか分からなくても、T戦後すぐ。U最近。V明治初めの並び替えである。
問4.Aが正解。アに天守閣じゃなくて塔が建っていたら、それは城郭でなく寺です。イは墳丘の「墳」は古墳の「墳」だと分かれば墓関係であることは判断できる。
問5.Cが正解。これは猫もニヤニヤ笑うほどのサービス問題(チュシャ猫のイメージで)。Xは米の増産→新田(町人請負新田)のことだし、Xは街道とあって湊(大湊)はないでしょう。
問6.@が正解。猫。水城が築かれたのは大宰府の防衛のため。

第2問
問1.Aが正解。ヤマト政権の国造が地方の有力豪族に与えられた地位(姓ではない。彼らの姓は君や直)であり、律令制下では郡司として地方政治の実務を担ったことが分かっていれば解ける。@は「中央から派遣」が誤り。Bは「初期荘園」は「屯倉」の誤り。大体初期荘園は、8世紀の墾田永年私財法以降だろう。Cの磐井は筑紫の国造。
問2.Cが正解。木綿は室町末期に尾張や三河などの先進地帯でやっと国産できるようになった。しかしそれを知らなくても、「木綿が室町時代の朝鮮からの輸入品」であったことは、中世の外交史の基本中の基本。奈良時代の民衆が着ていないことは判断できる。このパターンは以前にも出題されている。
問3.@が正解。猫ですね。a「貧窮問答歌」=山上憶良は常識。cは史料中に書いてある。dの在庁官人は国司が受領・遙任化する時代に登場する。
問4.Aが正解。常識。多分誤った受験生はいない。いたら全国で君だけかもしれない。
問5.Bが正解。Xの乙巳の変が645年のいわゆる大化の改新とよばれていたクーデタのことだと分かれば、表の読み取りで分かる。
問6.@が正解。子猫。Xは律令国家のモデルだから唐。しかも10世紀の初めに滅亡したとあるから、間違いなく唐。Yはお約束で渤海。そもそも百済は660年に滅亡しており、その救援のために白村江の戦い(663)が起こった。

第3問
問1.Bが正解。今年はじめての少し細かい問題。と言っても、アは鎌倉幕府の3代将軍は源頼家(2代将軍)だったですか、それとも源実朝ですかという問題。イは鎌倉幕府の公式記録は『吾妻鏡』ですか、それとも慈円が承久の乱を後鳥羽上皇にいさめる目的で書いた歴史書である『愚管抄』ですかという問題。やっぱり猫でしょう。
問2.Aが正解。これもお約束。「御成敗式目は頼朝以来の先例と、道理とよばれる武士社会の慣習・道徳にもとづいて制定された。」「御家人社会にのみ適応され、公家法や本所法を否定しなかった。」は基本中の基本。
問3.@が正解。Aの足軽鉄砲隊は鉄砲伝来(1543年)以降。鎌倉時代は1333年まで。Bの大原女は室町時代の京都の行商人。Cの借上は鎌倉時代であることは合っているが、高利貸し業者。これは問(問丸)にすれば正答となった。
問4.Cが正解。受験生にとってなじみの深い人物は足利義持のみであり、懐良親王や源道義=足利義満を知らないといけないのかという批判の声もあるかもしれない。しかし、これは室町時代の大きな流れと、中国による冊封体制の何たるかという本質が理解できていたら解ける。
 室町時代の大きな流れは、「南北朝の動乱が、3代足利義満によって合一された。」である。これは、受験生なら誰でも知っているだろう。
 本質は、「明は海禁政策をとっており、明と貿易するためには朝貢形式(冊封体制に入る)しかなかった。朝貢は中国から一国の王と認められなければ、行えない。」である。
 Uは九州に懐良親王がいるのだから南北朝時代のことである。→Vの「源道義」は明から「日本国王」と認められたからこそ、朝貢がかなった。貿易開始→T 4代足利義持が日明貿易を中断した、である。
 たとえ「源道義=義満」という知識がなくても解ける。ぼくは、これは良問だと思う。
問5.Bが正解。写真だけでも銀閣(東山山荘)だと分かると思うが、判断できなくても「8代将軍義政」が造営したと設問にあるのだからだ間違いない。「しぶいぜ金閣しょせん銀閣」→「金閣=1F寝殿造、2F武家造風、3F禅宗様銀閣=1F書院造、2F禅宗様」であるように、Aの浄土真宗は禅宗であり、Bはその通り。Cの長谷川等伯も障壁画もともに桃山文化のものである。
問6.Aが正解。これはヤヤ難問。堀越公方を滅ぼしたのが誰だったかまでは覚えていない受験生も多かったのではないか。ぼくのHPには「通史編」の『室町時代編9 戦国時代/都市の発達』に、「永享の乱以降、分裂した鎌倉公方は、出たらめんどい。字を正確に覚えると、清濁合わせでいける。堀越(ほりこし)公方(伊豆)と古河(こ)公方(下総)は、京都に近い方(伊豆)が8代将軍(義)の弟(知)で、遠い方(下総)が滅亡した持の子(成/し)と字がダブっている。さらにともに北条氏に滅ぼされるが、それも清濁合わせ(ほしこし→北条そううん(早雲)、こ→北条うやす(氏康))になっている。」と記してあり、山川の『詳説日本史』にも「北条早雲は堀越公方を滅ぼして伊豆をうばい、ついで相模に進出して小田原を本拠とし、子の北条氏綱・孫の氏康の時には、北条氏は関東の大半を支配する大名となった。」と本文中に述べられている(実教、三省堂も同様の記述)程度。しかし実際には、@は基本事項。Bは下剋上の典型例。Cは常識なので、多くの受験生は消去法でAを選んだのではないか。

第4問
問1.@が正解。ヤヤ難問。イは問題なかったと思うが、アは「農業全書」も「広益国産考」も農書なので迷ったのではないか。実際、ぼくのオリジナルノートも「農業全書」の次に「広益国産考」をあげており、その内容についての解説はしても、いつ成立したかは強調していない。山川の『詳説日本史』にはP184の脚注に「17世紀末には最初の体系的農書として宮崎安貞の『農業全書』が著された。また19世紀に入ると、大蔵永常の『農具便利論』『広益国産考』が刊行されるなど〜」とあり、設問の「17世紀後半」にあたるのは『農業全書』であることが分かる。しかし、受験生はここまでおさえていただろうか。ぼくは解くときにリード文の「「仁」や「孝」といった儒学の徳目が重視され、それを実践する農民こそが豊かになれるとする。農書にあらわれている近世農民の姿は、農業耕作をみずからの役割として位置づけるものであった。」という部分に着目した。『広益国産考』は文字通り「商品作物栽培の奨め」であって、幕府が描いた自給自足をよしとする本来の農民像ではない。そう考えるとリード文の内容と矛盾する。いわば消去法で「農業全書」となる。
問2.Bが正解。Xは深耕用の備中鍬。Yは脱穀の千歯扱。猫でしたね。
問3.Eが正解。落ち着いて考えればできる。Tの会沢安は化政文化で学習したはず。Uは雨森芳洲に目を奪われると迷うが、木下順庵の弟子だから、新井白石と同時代。Vの林羅山が幕初であるのは言うまでもない。つまり「V江戸幕府初期→U正徳の治のころ→T化政文化で習った」の並び替えであった。
問4.Cが正解。これはうなった。教科書の本文中にあるとはいえ、意欲的な問題だと思った(理由は後述)。@は村の運営は基本的に自治である。時代劇のイメージだと村によく武士がきて無理な要求をして百姓を苦しめているように思えるかもしれないが、江戸時代の村の運営は、室町時代の惣と同様、村民による自治なのである。年貢さえ納めれば支配者は村政に干渉しなかった。でなければ全人口の1割に満たない武士が、8割の百姓を支配できるはずがない。Aについて。苗字・帯刀は原則として武士のみに許された特権であることを考えれば、本百姓から選ばれた村役人の全員が士分(武士身分)を持っていたはずがないと判断できる。Bについて。かつては人権・同和教育でも被差別の身分に置かれた人たちは、農業に従事できなかったように教えられていた時期もあった。しかし実際にはかわた身分とされた人たちは百姓と同じように村をつくり、農業を営んでいたことは、現在、ホームルーム活動などで行われる人権教育でも正しく教えられている通りである。Cについて。百姓=農民ではない。教科書にも書かれている。ぼくのHPでも『近世編2 統制機構/封建的身分制度と負担』で、「百姓」(農業を中心に林業・漁業に従事する)と書いた通り。
問5.@が正解。基本。bの札差は旗本・御家人の給米を換金する商人。dは生活が困窮していき救済のために相対済し令や棄捐令を出さざるを得なくなった旗本・御家人が質地を購入できたはずがない。なおcは質地地主を指している。
問6.Bが正解。幕末のことを聞いている。Xの佐倉惣五郎は代表越訴型一揆の代表例であり、18世紀。Yの「世直し一揆」はその通り。

第5問
問1.Aが正解。猫。Xは台湾。Yは南樺太である。bの関東都督府は日露戦争後の満州経営のために旅順に設けられた。南樺太が日本領になったのはポーツマス条約(日露戦争の講和条約)によることは常識。
問2.Bが正解。基本。@の西郷隆盛は朝鮮に渡っていない。派遣するという意見はあった。一節には西郷自身は自分が朝鮮へ行って殺されたら出兵する大義名分ができると考えていたという話もある。Aの日朝修好条規が日本側に有利な不平等条約であったのは常識。Cは朝鮮が清国に出兵依頼をし、清国が天津条約の従って日本に通告してきたのを受けて、日本も対抗して出兵した。
問3.Cが正解。@・Aの第一次世界大戦末期と昭和恐慌からの立ち直りの時期が分からなくても、グラフの読み取りでCだとわかる。
問4.Bが正解。@は、地方制度がドイツ人顧問モッセの助言だと分からなくても、のクラークが札幌農学校関係だと分からない人はいないだろう。(モッセと地方制度は2009年度にも出題されている。)A〜Cは史料の読み取りである。Aは「無給にして其職を執らしむるを要す。」Cは「力めて多く地方の名望ある者を挙げて此任に当たらしむ。」とある。なおこの「地方の名望政治家」については2009年度の一橋大学の大問2でも取り上げられたことがある。(悪問だったけど)

第6問

問1.Bが正解。基本というよりはやはり猫。アのダミー黎明会は、吉野作造を中心とする知識人の会。新婦人協会は、イの治安警察法第5条にあった女子の政治活動の禁止の撤廃を掲げ、これに成功した後、婦人参政権獲得既成同盟会に発展的解消した。
問2.@が正解。aは浜口雄幸内閣のとき。これに対して政友会の鳩山一郎らが政権欲しさに、軍部・右翼とともに統帥権干犯と非難(統帥権干犯問題)し、浜口が東京駅で狙撃されることになる。cは第2次若槻礼次郎内閣である。なお、bのワシントン海軍軍縮条約は、高橋是清内閣のときだから立憲政友会。dの国際連盟脱退は、五・一五事件で政友会の犬養毅内閣が倒れた後組織された斎藤実内閣(海軍/挙国一致内閣・中間内閣)のときである。
問3.@が正解。まじめに勉強している受験生へのサービス問題。Xの『蟹工船」=小林多喜二。Yの軍部や右翼から排撃された憲法学説は美濃部達吉の「天皇機関説」であるのは常識中の常識。なおbの横光利一は川端康成と同様に新感覚派(ぼくは彼の『日輪』が好きです。)。dの穂積八束は「民法出て忠孝滅ぶ」とボアソナード民法に反対した人物である。
問4.Aが正解。日中戦争から太平洋戦争にかけての国民生活で、「米は配給制、砂糖やマッチは切符制」はお約束。@の地方改良運動は日露戦争後の地方財政の強化。やや難しいか。Bの防穀令は1889年、朝鮮が日本への大豆などの穀物の輸出を禁じたもの。日清戦争関係ネタである。戦時中は農家から米を強制的に供出させた。Cは戦時中にぜいたくを奨励するなど論外である(「ぜいたくは敵だ。」)
問5.Bが正解。基本。aのひめゆり隊は、看護要員。dの女子挺身隊は未婚の女性を軍需工場などへ動員した。修学旅行等で、沖縄の「ひめゆりの塔」へ行った人も結構いるんじゃないかな。
問6.Cが正解。これはすぐに鳩山一郎のことだとひらめいたと思う。岸信介もそうである。@は「保安条例っていつの話やねん」(三大事件建白運動→保安条例で民権派を東京から追放)といった感じ。Aは「おいおい」。保安隊が警察予備隊からの改組という以前に、朝鮮戦争に参戦してどないすんねん!Bは「考えたこともない。」だったと思うが、朝鮮戦争なんて冷戦の象徴みたいなものなのに、そのさなかにレッドパージが解除されるはずはない。考えたら分かる。
問7.Aが正解。選択肢のBとCの正誤の判断が難しかったと思われるが、「55年体制」への流れが分かっている人には、明らかAが違うと見抜ける。日本社会党は、サンフランシスコ平和条約の調印を巡る「単独講和論」と「全面講和論」の対立の中で左右に分裂し、鳩山一郎内閣のときに、左右社会党が統一され、保守合同で自由民主党が誕生して、「55年体制」となった。
問8.Cが正解。考えたら分かる。Tは米航空機だからロッキード事件。逮捕された前首相は田中角栄だから1970年代だと判断できる。Uの昭和電工疑獄事件は戦後すぐ。問題はVである。「造船疑獄なんて習ってないぞ!」ぼくも教えていません。しかし戦後初の長期政権といえば吉田茂でしょう。この時、法務大臣から指揮権が発動され当時の与党自由党の幹事長であった佐藤栄作を逮捕しようとしていた検察に対して、捜査の打ち切りが命じられた。


 解いていてまず驚いたのが大問4で近世の被差別の立場に置かれた人たちを正面から扱ったことである。以前、ある私立大学が出題して論議(非難を含む)をよんだこともあり、受験問題としては取り上げにくい分野だと考えていた。
 しかし、山川の『詳説日本史』にも「百姓と同じように村をつくり、農業をおこない、皮革の製造やわら細工などの手工業に従事したが、死牛馬の処理や行刑役などを強いられ〜」(P.170)とあるように、いわゆる百姓と変わらない生活をしていながら被差別の立場に置かれたことを出題として問うており、また彼らへの賤視が、支配者側だけの問題ではなく、民衆の差別意識にもよることも指摘している。人権・同和教育の推進の上でも意味のある出題だったとぼくは考える。

 難易度としては、いわゆる「悪問」というものは見あたらない。本当に理解できていなかったら解けないものもあるが、一見難しそうに見えても落ち着いて考えれば「これしかない」と判断できる。過去問をしっかりやって教科書で確認していれば8割はとれるものではなかったかと思う。
 昨日、大学入試センターから平均点の中間集計が発表されたが、69.23点(昨年度の中間集計は64.78点。最終は64.11点だから中間集計と最終とに余り差はない。)であった。納得できる。

2011.1.19

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