頂いた質問から(18)
『武士の成り立ちに関する諸説』
武士の発生については、ちょうど10年前に発展『武士の発生』を書いた。
しかし、先日、69歳の方から、 「武士の成り立ちに関して教えていただきたい」というメールをいただいた。内容は、
以前は通説として、武士、特に関東武士は、有力農民が開発領主となり、 彼等が武力を獲得して鎌倉幕府の成立につながったと説明されていた。
しかし、最近は野澤先生が解説されているように、武士は武力行使を社会的に公認された身分であって、地方農村から自然発生的に生まれたわけではないとされている。
説が変化したのには、その根拠となる新たな証拠の発見があったと考える。その根拠や経緯を教えてもらいたい。
というものだった。いつもながら、高齢者の方の「学ぶ」ことに対する意欲の高さに感銘を受けるばかりである。
入試には関係ないと思うが、質問者に返信した内容を紹介したい。
武士の起源については諸説があり、いまだに決定的な学説があるわけではありません。そして、高校の教科書の記述も統一されてはいません。 現在、主要な学説としては次の3つを挙げることができます。
一つ目が、開発領主に求める説(在地領主論)。これが、質問者様も通説とされた「有力農民が開発領主となり、彼等が武力を獲得していった」というものです。
二つめが、職能に由来するという説(職能論)であり、私がホームページや拙著で述べているものです。
さらに三つ目として、律令制が崩れていく中で編成された国衙軍制に起源を求める説(国衙軍制論)があります。
教科書では、山川の『新日本史B』が在地領主論。同じく山川の『詳説日本史』などが職能論。実教の『日本史B』は国衙軍制論を取り入れた記述となっています。
私の認識不足であれば申し訳ありませんが、これらの諸説は、「それを裏付ける文献証拠や、異論を否定する根拠となった証拠があって登場したのではなく、他の説では説明できない部分を補う形で生まれた」と私は考えています。以下にできるだけ簡単に説明したいと思います。
まず一つ目の在地領主論です。
これは、「中世の発見」と密接に関わっています。日本にもヨーロッパと同様に「中世」があったことを発見したのは、明治時代の歴史学者たちです。
当時の欧米の史学界では、中世は近代へ発展するために不可欠の時代であり、それは欧米に特有のものであるとされていました。欧米は中世という時代を経たからこそ近代国家へ移行できたのだという認識です。その理論の上にたって、アジア・アフリカはいまだに古代社会であるので、近代社会に発展することは不可能だとしたのです。
欧米の歴史学者がヨーロッパの中世を支えていたものと位置付けたのは、ゲルマン民族の大移動によって辺境で発生した「武装した封建領主」である騎士でした。
明治時代の歴史学者は、それならば、日本にも、ヨーロッパの騎士と同じように、平安時代中期から東国を中心とした辺境社会で活躍した「武装した封建領主」である武士がいたと主張したのです。日本にも中世が存在したのなら、日本も近代化できるはずです。 これが「中世の発見」です。
そして、武士の起源は、抵抗する配下の農奴と、介入してくる受領に対抗するために「武装した大農園主」である開発領主だとしました。
この学説は広く受け入れられ、戦後も学界の主流を占めることとなりました。その背景には、マルクス主義の歴史観である「唯物史観」も大きく影響を与えました。武士は、古代の支配階級であった貴族や宗教勢力との階級闘争に打ち勝ち、中世という時代をつくった変革者だとされたのです。
先述のとおり、山川出版社の『新日本史B』が、この立場で書いてあります。
(※実際、日本史の研究室の多くは革新(左傾)だった。ぼくも先輩から、「日本史の研究室にいると、自分は道の真ん中を歩いているつもりでも、道そのものが左に曲がっている」と言われたことがある。)
しかし、この「開発領主(在地領主)」論では、メジャーな武士団の棟梁である源氏、平氏、藤原氏など、上級武士の登場が説明できないのです。また朝廷、院などの権門と密接に結びついた武士の起源も説明できません。
そこで出てきたのが、二つ目の、在京の武士が、武士の起源であるとする「職能論」です。
各地で起こった武力紛争を鎮圧するために、公式に武器の使用を認められた押領使や追捕使=武士として中央から派遣された中下級貴族が、鎮圧後も在庁官人(現地の役人)などとしてそのまま現地に残り、有力な武士となったというものです。これが、私がHPでも書いている「武装しているからといって武士ではないのは、ピストルを持っているからといってやくざが警察官ではないのと同じ」という説です。
彼らは、時には国司に反抗するときもありましたが、特に辺境の地方では、任期終了後もそのまま任地に残った国司の子孫などを中心として、さらに大きな武士団を形成するようになりました。やがて地方の武士団は、清和源氏や桓武平氏のような皇室ゆかりの下級貴族を、武士団の上位にある武家の棟梁とあおぐようになりました。かくして源平は、武芸と武名を引き継ぐ軍事貴族となっていきました。これが職能論です。
日本史Bを学ぶ高校生の60%のシェアを誇る山川出版社の『詳説日本史』がこの立場で書かれています。
さらに近年は、成長した地方武士団が源平を担いだのではなく、その逆であって、清和源氏や桓武平氏のような下級貴族層の方こそ、荘園領主や国衙と結びついて所領経営者として発展していったのだと考える説も提唱されています。
しかし、この「職能論」で源氏・平氏・藤原氏といった貴族を起源とする武士の存在や武芸の伝承については説明ができるのですが、彼らの職能を支える経済的基盤である所領(武芸に専念できるための収入はどこから得たのか)などが、うまく説明できないのです。
そこで主張されたのが、出現期の武士は田堵(荘園・公領の耕作を請け負う有力農民)として経済基盤を与えられており、11世紀の後期に国家体制が変質した時点で、荘園・公領の管理者としての領主身分を獲得したとする国衙軍制論です。これが三つ目の説です。
古代の律令国家は、律令に基づいて戸籍に登録された正丁(成年男子)から兵士を徴発し、軍団を編成していました。しかし、9世紀初頭以降、戸籍を通じた個別の人民支配が急速に不可能になっていきます。ところが、困ったことに、9世紀半ばには群盗海賊が頻発するようになりました。しかし、軍団兵士制は機能しなくなっており、対応ができませんでした。
そこで、朝廷は、奏上してきた国司に対して、現地で兵の徴発を許可する「勅符」を交付されるようになりました。国司は勅符に基づき国内の兵を徴発して群盗海賊を制圧するようになったのです。では、この時、臨時に徴発された兵とは何かというと、弓馬に通じた百姓でした。この百姓とは郡司や富豪層です。さらに帰順して全国各地に移住させられた蝦夷の後裔たる俘囚も動員されました。郡司・富豪層と俘囚が、国内の軍事力として新たに編成されることとなったのです。特にもと蝦夷である俘囚の戦闘技術は高く、彼らは騎馬戦術に優れていました。
さて、先にも述べたとおり9世紀には戸籍をもとに人民を把握することは不可能になっていました。そこで政府は、9世紀末から10世紀前半にかけて国司の交替制度を整備し、任国に赴任する国司の最上位者に大きな権限と責任を負わせ、徴税を請け負わせるようになりました。この国司は受領と呼ばれました。そして徴税は、「人」ではなく「土地」に対して課せられるように変わりました。人は把握できなくても、土地は存在しますから、誰が耕すかに関係なく、その土地からあがる収穫に課税するようになったのです。
受領は経営の上手な有力農民と契約を結んで、耕作を請け負わせました。この受領と請負契約を結んだ有力農民が田堵です。
11世紀になると田堵のなかでも特に大規模経営を行う大名田堵のなかには、大規模な開発を行う者が現れてきました。彼らは、屋敷地や開発地を拠点に、国衙から管理をまかされた一定領域内の農民を政治的に支配して、開発領主とよばれるようになりました。
もともと弓馬に巧みであった有力農民=田堵=開発領主を、国司が国衙の軍事力として編成して国衙軍としたのが武士の起源であるというのが国衙軍制論です。
実教の『日本史B』が、この国衙軍制論を採用した書き方をしています。
なお、この国衙軍制論は、近年の最新の説というものではなく、1960年代に武装農民が武士の起源だとする説が苦しくなったころ、すでに指摘されていたものです。しかし、議論は職能論中心に行われていきました。それが1980年代に、武士の成り立ちを王朝国家や荘園・公領制の議論と結びつけて考える意見がだされて、急速に勢力を伸ばしていったという感じです。
最後に改めて、ぼくは職能論で説明しているが、どれかの説が定説となっているわけでない。また、教科書も、同じ職能論の立場でも、それぞれ特徴のある書き方をしている。例えば、東京書籍の『新選日本史B』は、「こうして朝廷の武力としての武士が誕生した」と書いている。また、清水書院の『日本史B』には、「中央の貴族が死や血の「ケガレ」につながる武芸を避けるようになると、源氏や平氏などの一族が武芸を職能とするようになって、彼らはやがて武士とよばれた。」と記されている。
2018.10.5
コラム目次へ戻る
トップページへ戻る