頂いた質問から(17)

『大宝律令と唐の律令との違い』


 2017年1月20日(金)の夜遅く、東京大学を目指して浪人中という方から質問のメールを受け取った。センター試験も終わり、2次試験に向けて頑張っているところなのだろう。
 少しでも早く返事を送るべきなのに、気付いたのは翌21日(土)の夜であった。しかもその内容が、今まで考えたことのなかったものだった。
 結局、返事を送れたのは、22日(日)の正午になってしまった。

 教科書に書いてあることで、分からないことがあれば受験生は不安になる。

 今回のぼくの返事の内容が、本当に正しいかどうかは分からない。しかし、入試においてポイントとなる部分は受験生が知っていてもいいのではないかと考え、コラムにさせてもらうことにした。


<質問への野澤の返信>

 Y君、こんにちは。愛媛県で教員をしている野澤道生といいます。君からのメールを受け取りました。

 
山川出版社の『新日本史B』(81山川日B307)のP41にある

 
大宝律令は、唐の永徽律令を手本にしたもので、刑法にあたる律は唐律をほぼ写したものであるが、行政法や民衆の統治を定めた令については、日本の実情に適合するよう、大幅に改変されている。天皇をめぐっては、規定を削除している部分が多く、また中央の氏や地方の国造制の影響などがみられ、古くからの氏族制的要素も色濃く残っている。

という記述の
「天皇を巡っては、規定を削除している部分が多」いというのはなぜですか?どういう内容だからですか?

という質問についてです。

 本当に申し訳ないのですが、正直言って、ぼくはそこまで律令に詳しくなく、はっきりとしたこと分かりません。
 知っていることと言えば、大宝令には、天皇・皇后の衣服規定がない(唐では祭祀・儀礼における皇帝の衣服について細かく規定されているが、日本では衣服規定の対象は皇太子以下になっている。これは当時の天皇が女帝だったからではないかとも言われている)ことぐらいです。

 さらに言うと、
山川の『新日本史B』が、高校生が使用する教科書として、この一文が必要だと判断した理由も分かりません。

 大宝律令の内容の理解として大切なことは、

 
唐の律令にならいながらも、独自の実情にあわせてつくられている

ことです。

 従来(江戸時代以来)、「律は唐律の模倣だが、令は日本の実情にあわせてつくられている」とされてきましたが、「律も実情を踏まえて改めた苦労のあとがみられる」という意見(高塩博 氏:國學院大學教授など)が出されており、現在、多くの教科書がこれに沿うような表現となっています。(例:山川『詳説日本史B』、『高校日本史B』、実教『日本史B』。
同じ山川の教科書でも、今回質問された『新日本史B』だけが別の立場からの記述となっています

 そのような中で、従来どおりの説を踏襲していること。また、世界史の教科書にも出てこない永徽律令
を本文中に出して、「天皇を巡っては・・・」と書いていること自体に疑問を感じます。
 教科書と言えども本ですから、ある程度、執筆者の思いが反映されることは致し方ないとしても、ちょっとフェアじゃないように感じます。

 東大を目指す君にとって、唐の律令と日本の律令の違いでおさえておくべきことがあるとすれば、

 唐は皇帝に権力が集中するシステムであったのに対して、日本は太政官が権力を持っていた

ことだと思います。

 唐の律令の規定では、中書省(法案作成)、門下省(法案審査)、尚書省(門下省を通過した法を実施)の三省があって役割を分担し、その上に支配者としての皇帝がいました。しかも、門下省は貴族の利害を代表して国政を監視する位置付けにあったため、唐代中期以降、
皇帝独裁の進展によって中書省に実権を奪われていきます。

 それに対して日本では、権力は太政官に集中するようになっていました。そして
太政官は合議制でした。重要事項や官吏の任免・審査などは公卿会議で審議され、公卿の合議の上、天皇の決裁を受けたのです。

 これを「『王は君臨すれども統治せず』であり、英国が流血を繰り返した後ようやく17世紀後半にたどり着いたことを、日本は8世紀にすでに実現していた」という人もいます。

 大宝律令制定当時は、幼年の天皇は即位しなかった(聖武天皇が成人するまで元明・元正天皇が中継ぎをした)ことを考えると、天皇になるにはそれなりに統治者としての資質を必要とされたわけですから、これは言い過ぎだ思いますが、東京大学の2014年度第1問の資料(3)に「太政大臣藤原基経は、884年、問題のある素行を繰り返す陽成天皇を退位させ、年長で温和な人柄の光孝天皇を擁立した。基経の処置は、多くの貴族層の支持を得ていたと考えられる。」とあったように、「摂関は、問題のある天皇を退位させ、適任者に代えるなど、ある意味で天皇をコントロール(制御)する役割を担って」おり、それは、太政官を構成する公卿も認めるものであったわけですから、いかに太政官の権限が強かったかがわかります。

 平安時代初期の嵯峨天皇は、令外官の設置を中心とした官制の再編と法制の整備とによって、天皇権力を強化しました。彼が設けた蔵人、検非違使は天皇直属です。天皇権力の強化のためには律令の規定外のことをしなければならなかったことがうかがえます。

 ぼくは、東京大学の2014年度第1問設問Bで問われた摂関政治の時代の国政審議のあり方について、

B天皇と摂関が協力して、太政官と連携して国政を主導する一方で、天皇個人の能力に関係なく、太政官が機能する体制が整っていた。摂関は強い権限を持っていたが、重要事項や官吏の任免・審査などは公卿会議で審議され、公卿の合議の上、天皇の決裁を受けた。(120字)

という答案を作成しました。(東大チャート2005年度 『東京大学 第1問』 の解答例と解説ー 嵯峨朝の歴史的意義ー

 日本の律令体制下における天皇の立場として理解しておくべきことは、この点ではないかと考えます。

 君からの質問への直接の答にはなっていなくて申し訳ありません。少しでも役に立つようならうれしいです。


<追記>

駿台の塚原哲也先生から次のような御示唆をいただきました。

「天皇をめぐっては,規定を削除している部分が多く」という記述は,天皇という存在を「古くからの士族制的要素」の一つとする大津透氏の評価に基づくものだと思います。ちなみに,大津透『古代の天皇制』(岩波書店)のなかに,次のような記述があります。
(天皇には)「その本質として神事にかかわる固有性があり,唐令・唐礼的世界とは異質すぎてとうてい律令には定めることはできなかった。律令に定められた天皇のあり方は,七世紀までの大王のあり方を継承し,大和政権における氏姓制度の秩序を保っていたということができよう」。
野澤さんもサイトの説明のなかで天皇の衣服規定がないことを指摘されていますが,大津氏の評価に基づけば,神事という「天皇の本質」が唐の礼,礼的秩序とは異質であったため,衣服規定を継受しなかったと言えると思います。

天皇が権力を集中させていく過程が同時に唐風化の進展過程(礼や衣服を含め)であることを考えれば,律令制のもとに天皇がくみ込まれていく,あるいは制度化されていったのが8世紀半ばから9世紀にかけての動きだったのではないでしょうか。

さすが塚原先生と、いつもながら思いました。



2017.1.22
(2017.1.27追記)


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