コラム 『 続 受験日本史の可能性 』
 
 

 2013年5月11日に掲載した『頂いたメールから 受験日本史の可能性』の続編のようなものである。前任校での話であり、思い出話である。だから気楽に読んで欲しい。


 今の勤務校もそうなのだが、前任校も新設の公立中高一貫教育校であった。

 そこでぼくは、1つの学年を1年生から6年生まで(中学1年生から高校3年生まで)担任として持ち上がらせてもらうという、非常にありがたい、本当にこの上ない経験をさせてもらった。卒業式では生徒より先に泣いてしまって、周りを引かせてしまった。


 その子たちが4年生(高校1年生に相当)になった時、ぼくは一人の女子生徒の担任となった(Mさんとする)。

 出会ったときの彼女は、彼女自身が前任校のHP(http://matsuyamanishi-s.esnet.ed.jp/graduater/mizunomaki_rits/mizunomaki_rits.html)に、

 小学生までの私はいわゆる「良い子」でした。塾やスイミングスクールに通い、中学受験をするのは当たり前と思っていました。西校に合格して入学を決意し、私はこれからも勉強や水泳を頑張っていくのだろうなと思っていました。そして西校での生活が始まりました。

 私は1年生の3学期頃から勉強についていけなくなり、その頃から「私は馬鹿なんだ」という思いを抱きはじめました。私は水泳部にも所属していたのですが、2年生頃から練習を休むことが増えていきました。生活面においても、生徒指導の先生のお世話になることが数多くありました。

 私は後期課程に進むか他の高校を受験するか悩んだ結果、西校の後期課程に進むことに決めました。しかし4年生になっても勉強に対してのやる気はなく、生活態度も悪いままでした。欠点や反省文を書くことは日常茶飯事でした。


 と書いている状態だった。それからぼくは彼女を卒業まで3年間担任することとなった。


 後期課程に入ってからも相変わらず勉強は大嫌いでしたが、唯一興味を持てた科目が日本史でした。なんで頑張ったのかは覚えていないのですが、5年生の2学期の日本史のテストで高得点をとったのです。
 このことがきっかけで、「勉強ってすれば出来るんだ」と思えるようになっていきました。それに加えて、今まで心配をかけてきた両親や先生たちを安心させたいと思い始めました。そしてなにより、このままの自分で終わりたくないと思うようになったのです。

 この時の彼女の様子はしっかりと覚えている。たまたま一番前の席に座っていた。普通女子生徒は、答案の得点の部分を折り曲げて隠すようにする。しかし、彼女はその答案を広げたまま、目に涙をためてじっと見ていた。
 

 必死で勉強をしはじめたとたん、世界が変わりました(笑)。
 今まで私にあきれていた先生も、私の将来を諦めかけていた両親も、今まで関わることのなかった成績優秀な同級生たちも、私を応援してくれるようになりました。その応援が本当に嬉しく、とても力になりました。
 模擬試験の後は訂正ノートを必ず作る、予習復習は必ずする。前期課程の頃から言われていたことが6年生になってやっと出来るようになりました。

 その頃彼女が言った言葉が、「私は勉強しない悪い子だったけど、そんな私が国公立大学に合格するなんて奇跡だけれど、もしも合格できたら、人は努力をすればやり直すことができるんだってことが、誰かに伝わったりしたらいいな。」である。

 そして本当に北九州市立大学(国公立大学!)と立命館大学などの有名私大に合格することになった。

 その彼女は今、アメリカに留学中である。
 地方都市の学校で、中学生の時からつまずき、高1、高2の時は英語の欠点で進級すら危なかった彼女が、必死で勉強して留学試験に通り、世界を見ている。(「常にギリギリ(合格最低点)で何とかなるというのが私の人生なのかもしれません(笑)」と言っていた。しかもアメリカでもこの調子で、ギリギリ滑り込みで、上へ上へと昇っているらしい。「なんとかなるもんですね。諦めなくて良かったです。」とメールしてきた。)

 留学する直前、彼女が挨拶にきた。次の文は、そのときぼくが告げた内容である。「最初から飲むこと前提かよ!」と我ながら突っ込みたくなる。


 アメリカでも慣れてきたら夜、街に出ることもあると思うけど、夜の街を歩くときは、

 @ 人の流れにのって歩きなさい。
 A 大通りを歩いて、決して路地に入らないこと。
 B 電車に乗るときは、車掌や運転手がいるそばの車両に乗ること。

 こういう基本的な注意事項をしっかり守りなさい。不必要に恐れることはありません。
 あと、「ちょっと危険かな、と思われる地域にいるときは、仲間同士でも日本語で話さず、必ず英語でしゃべりなさい。短期滞在者だとバレると銃を持っていないと相手に安心されるから。」とアメリカ人に教わりました。

 そういうことに気をつけながら、ぼくも、シカゴの街に飲みに行きました。
 一度、夜景で有名なジョン・ハンコック・センターのバーに行ったら、ちょうど窓際の席が空いてなくて、仕方なく部屋の中側のテーブルに座りました。
 でも5分もしないうちに、若いお兄さんが、「ぼくたちはもう帰るから、今、ぼくたちが座っている席にすぐに移りなさい。」と言って、窓際の席を譲ってくれた。
 アメリカは、決して治安がいいとは言えないけれど、こうしたちょっとした親切がうれしい国でもあります。

 楽しんで、そしてしっかり勉強しておいで。”挑戦”できるのは、多くの場合やはり若い者の特権だから。


 
 今、このページを見てくれている人のほとんどは、きっと人並み以上に努力している人たちだとは思う。

 だけどもし君が、勉強につまずいて、どうしてよいか分からなくて、それでもこのままで終わりたくないという気持ちがあって、偶然、ぼくのHPを見つけたのなら、そんな生徒にぼくがいつも言っていることをそのまま言いたい。

 とりあえず日本史、本気でやってみませんか?日本史なんて英数国に比べたら「ちんけ」な教科ですよ。でも、「ちんけ」な教科だからこそ、きっちりやれば、かけた時間がそのまま点になります。
 ぼくに欺されたと思って、受験日本史、必死でやってみませんか?結局、欺されて終わるかもしれないけれど、もしかしたら世界が変わるかもしれませんよ。

 

Mさんの日本史の教科書。項目ごとにインデックスを付け、理解しにくいところには付箋が貼ってあります。破れた表紙をテープで修理し、もうボロボロです。 シカゴの「ジョン・ハンコック・センター」のバーから見る夜景 シカゴ郊外のオークパーク高校(ヘミングウェイの母校)で、
教えさせてもらっていた時期があります。自分が若い!

2013.5.19

コラム目次へ戻る
トップページへ戻る