コラム 新人墓マイラー奮戦記6 

『井伊直弼から川路聖謨』


 井伊直弼。日本人がもっと高く評価してよいとぼくが考える代表的な人物。
 前回東京へ出た際は、田沼意次がメイン(コラム 新人墓マイラー奮戦記3 染井霊園周辺1『遠山の金さんから田沼意次』参照)だったが、今回は井伊直弼の墓へ是非参りたかった。
 テーマは「開国」である。

よく知られていることだが、暗殺される直前の3月3日早朝、彦根藩邸に水戸藩浪士の襲撃を密告する投書があった。しかし直弼は警護を厳重にすることもなく出発して暗殺された。

ところで、平成21年から行われた直弼の墓の改修工事の際に、地表から約1・5mまでに石室がないことが確認され、その後、東京工業大が行ったレーダー調査でも地下3m以内には石室は見つからなかったという。つまり、この墓地に直弼はいないということになる。
「本人のいない墓に参って何になるんだ。」このことは、訪問する前から知っていたのだが、思い直した。寺院の塔も本来はブッダの遺骨を納めたものだったはずではないか。でも全国の有名な寺院の塔の下にブッダの遺骨があるとは思っていないでしょう。それと同じ。
井伊直弼が再評価されるようになって、ぼくとしてはうれしい限りである。
東京世田谷にある豪徳寺。実は入り口が分からなくて周囲を一周してしまった。 井伊直弼の墓。到着したのは午後3時ごろだったが、ぼくと入れ違いでもう一人、参りにきた人がいた。

 さらに、

ここからである。
井伊直弼、岩瀬忠震、井上清直とくれば、次は川路聖謨でしょう。日露和親条約。有能なだけでなく、誠実で情愛深く、ユーモアに富んでいた。和歌にも造詣が深かった。また、江川英龍や渡辺崋山らとともに尚歯会に参加していた。井上清直の実兄でもある。
メトロを乗り継いで、台東区(上野公園の西側)の大正寺へ。
墓石を探しまわるのだが分からない。どんどん暗くなっていき、お寺の方が寺の門を閉めようとした。そこへ飛んでいって、事情を話すと、すごく親切に案内してくださった。
寺の中には、川路聖謨にゆかりの人の墓もあり、すべて紹介してもらった。そして「門の横の駐車場の入り口を開けておきます。慌てなくて構いませんから、そちらから出てください。」と言っていただいた。
井上清直。岩瀬忠震とともにハリスをして「井上、岩瀬の諸全権は綿密に逐条の是非を論究して余を閉口せしめることありき。(略)懸かる全権を得たりしは日本の幸福なりき。」と言わしめた。 墓石の右上に、「外国奉行」と記されているように3度外国奉行を勤めた。また、遠山の金さんと同様、北町奉行と南町奉行の両方に任じられた人でもあった。墓所は新宿区の宗相寺。 しかし、ぼくのカメラでは、もうこんなふうにしか撮れなかった。

と、言うわけで・・・・、

 
 翌日、小雨の降る中を、再び上野へ。

大正寺の門今回は墓の位置はすぐにわかった。前日来たことは無駄ではなかった。 改めて川路聖謨の墓である。日露和親条約の交渉にあたり、全権川路聖謨は、着物の前を左右逆にして、つまり死に装束と同じにして、覚悟を持って臨んだ。

 受験が終わって、東京へ行くことがあって、さらに時間があったら、是非行って欲しい場所。

                

外務省外交史料館の別館展示室。展示を見るだけなら自由。
原本は保護のため、ほとんどは精巧にできたレプリカなのだが、シミの跡まで再現している。ぼくとしてはちょっと感動ものであった。無料だし。

日露和親条約 川路聖謨の名前が見える。 日米修好通商条約。井上清直、岩瀬忠震の名が見える。

 
 今回、お参りしたこれ以外の方々。

黄表紙作家として有名な恋川春町は、実は親藩であった小島藩で年寄にまで出世した武士であった。安永4年(1775年)に『金々先生栄花夢』で当世風俗を描き、一躍ベストセラー作家となった。彼が開拓したジャンルが、のちに黄表紙といわれるようになる。
しかし、年寄本役120石取りとなった翌年(1788)に執筆した、黄表紙『鸚鵡返文武二道』が松平定信の文武奨励策を風刺した内容であることから、寛政元年(1789年)に、定信より呼び出しを受ける。彼は病気として出頭せず、同年4月24日には隠居し、その年7月7日に死去した。自殺とも言われる。享年46歳であった。(墓地は新宿区成覚寺)
子供合埋碑は、江戸時代、内藤新宿で暮らしていた飯盛女(遊女)たちを弔うために、抱え主たちが万延元年(1860)に合同で建てられた慰霊碑である。「子供」というのは、遊女たちが抱え主のことを「お父さん」「お母さん」と呼んだことからきている。
幕府は原則として風俗営業を吉原に限定して風紀粛正を図ったが、抜け道があった。
日本橋から近い宿場町の宿は、本来の旅行客を確保することが難しい。目的地である日本橋が目前にあるのだから、通過してしまうからである。そこで人数制限は受けたものの、食事の給仕をする飯盛女(今でいうウェイトレス)に売春させ、江戸からの客を確保することを幕府に黙認させたのである。
飯盛女が年季奉公中に死ぬと、腰巻き1枚で俵に詰められ、投げ込むように寺へ送られた。成覚寺は「投げ込み寺」と呼ばれた寺の一つであった。成覚寺に葬られた人数は、2000を超えたとされる。 
恋川春町。もちろん黄表紙『金々先生栄花夢 恋川春町の墓がある成覚寺には、「子供合埋碑」がある。


川路聖謨の墓がある大正寺の正面は、北村季吟の墓がある正慶寺 北村季吟の墓。江戸幕府の歌学方。『源氏物語湖月抄』や『枕草子春曙抄』がある。 側面には、井型の家紋と辞世の「花も見つほととぎすをも待ち出でつ この世のちの世思ふことなき」が刻まれている。


 外務省外交史料館にかなり長い時間いたように思う。係の方に「何かおもしろいものがありましたか?」と問われ、親切にしてもらった。
 吉田茂を主人公にしたテレビドラマが放映されたことに合わせて、吉田茂コーナーができていた。それもおもしろかったが、ぼくとしては墓マイラーをした相手の人の名が記させている文書に、何より感動した。

2013.3.10

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