『ほろほろ酔うてー種田山頭火と一草庵ー』

ほろほろ酔うている

という言葉が好きである。これはもちろん種田山頭火(たねださんとうか)

ほろほろ酔うて木の葉ふる

という句からとっているのだが、この山頭火の終焉の場所となった一草庵(いっそうあん)は、ぼくの家のすぐ近くにある。酒好きのぼくにとっては、この

ほろほろ酔う

という言葉の響きがたまらない。もっとも山頭火は酔っていく過程を

まず、ほろほろ、それからふらふら、そしてぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ

と表現しているので、「ほろほろ」はスタート地点である。ぼくなんか毎日「ザブザブ」行水のように飲んでいる状態なので、「ほろほろ」という感覚とはほど遠いかもしれない。

さて、山頭火の代表作といえばやはり、

分け入っても分け入っても青い山

であろうが、他にも「鉄鉢の中にも霰」など、 多くの有名な自由律の俳句を残している。しかし残念ながら、種田山頭火は国語の文学史のテキストには載っているが、日本史の用語集にはでていない。

種田山頭火は、1882 (明治15)年、山口県防府市に大地主の長男として生まれた。若くして文学の才能を現したが、母親の自殺、事業の失敗、一家離散とその人生は波瀾に満ちたものであった。 43歳の時、熊本で泥酔して進行中の電車を止め、かつぎこまれた禅寺でそのまま仏門に入った。 45歳から一鉢一笠の行脚を始め、妻子を捨てて山陰、山陽、四国、九州、近畿、東海各地を放浪し句作を続けたが、1939(昭和14 )年、多くの友人たちの善意で、愛媛県松山市の御幸寺境内の納屋を庵とした。これが一草庵である。 

好きだった道後温泉まで歩いて20分。ここで彼は酒と句作の日々を過ごすことになる。そして、1940年、友人たちが句会を催している最中に、隣の部屋で寝たまま他界した。最期もいかにも彼らしい。

ところで、最近、ふと彼の句が口をついて出るシチュエーションが多い。

例えば、飲んだくれて、深夜歩いて家に帰っている時など、

どうしようもないわたしが歩いてゐる

それでも、たまたま見事な月が、雲の間から姿を見せた時などは、それをずっと見て歩きながら

雲がいそいでよい月にする

途中で、深夜営業のうどん屋さんに寄って

うどん供へて 母よ わたくしもいただきまする

と、口ずさんだりする。(ぼくの母親はまだ健在です。すみません)

また、ふと夜中に目が覚めて、なぜか眠れない時などは、

ふくろうはふくろうで わたしはわたしでねむれない

ああ、なんか、酒飲みの生活パターンそのものじゃないか!もしかしたら、それでぼくは山頭火が好きなのか?!

でも最近、気に入っている句は、休日でお天気のよい時に、自宅近くを幼い息子たちと散歩をしながらの、

日ざかりの お地蔵さまの顔がにこにこ

である。なんか穏やかな気持ちに磨きがかかるような気がする。

これらの句は高校時代に何となく覚えたものである。それも、

1.山頭火という変わり者が、たまたまうちの近くに住んでいたことがあるという歴史的事実があったこと
2.「俳句といえば五七五」と小学校以来思いこんでいたところへ、「自由律の俳句」というものの存在を知って少し興味が湧いた


という2つの理由から、その作品をとりあえず読んでみただけであって、当時は意味も深く考えなかったし、別段感動もなかったというのが正直なところである。

今、受験勉強をしている人たちは、勉強しながら「こんなことを覚えて一体何になるんだろう。」ということが、たくさんあると思う。

その一方で、文学や芸術の才能や鑑賞力に年齢は関係ないという話もよく聞く。

そうだとは思う。

しかし、それなりの年齢とか、社会的立場になってはじめて、その良さが分かるものもあるのではないかと、最近思う。(受験知識に教えられること−藺相如−へ

結局のところ、勉強したことで無駄になることって、そんなにはないんじゃないかなと、この歳になって思えるようになってきた。

(一草庵と「鉄鉢の中にも霰」の句碑)

2004.11.6

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